<第2回応募作品>『水に祈る』著者:田保 冬真
2007 / 04 / 13 ( Fri ) 〈今日は外せない用事があってさ。ほんとゴメン。また誘ってくれよ。…おう、じゃあな〉
ボタンを押して通話を切った。 朝早く夢に起こされてボーッとしてる時に携帯が鳴った。相手は大学の友達で、これから海にナンパしに行こうぜ、という誘い文句は魅力的だったけど断った。 僕は学生生活最後の夏休みを過ごしていた。奇跡的に内定をもらい、単位も問題なく、卒論もなく、金もないけど時間と気楽さだけはある日々を漂っていた。 ぼんやりしたまま目覚めの一服をした。 ──またタバコなんて吸って! 昔、言われた言葉を思い出した。いつも言われてたっけ。そんなの吸ってると病気になって死んじゃうからやめろ、なんてさ。 卓上カレンダーに目をやると曜日感覚が一時的に復活した。日曜だった。普通の人にはなんでもない休日。僕にとっては…。 ゆらゆら立ち上る煙を目で追っていると時計の規則的に時を刻む音が気になった。 その音は咀嚼の音に聞こえてくる。 僕の胸には空洞があった。そこには動物が住んでいる。 普通ならその動物は時間によって痩せ細っていく。時の流れの中で存在が薄れていく。なのに僕の中にいるのは特殊なやつらしく時間を食べる。食べた分だけでかくなる。 動物はもう五年もの時間を食べた。 動物に名前はない。成分が複雑に絡み合い、溶け合い、混ざり合い、判然としないからだ。なんて呼べばいいのかわからない。 新しく名前を作って付けてあげたら、飼い馴らすことができるのかなぁ? また今日という日を思うと、胸の奥が苦しくなった。動物がなにかをぎゅっと掴んで暴れてる。 痛い、痛いと涙を流したら、動物はちょっとでも同情してくれるのかなぁ? もしそうだとしても、それは無理だ。僕の涙は五年前から流れることを忘れているから。 あの時、涙をこぼさなかった。僕が泣いたその瞬間に認めてしまう。そう思ったからだ。それからの僕は泣くという行為を失い、他の表情までもが中途半端になってしまうといういらないおまけが付いてきた。 たぶん《何か》が壊れたんだと思う。 ブラインドのスラットの角度を変えるとベランダの光が反射して目を刺した。瞼をもむと顔がベタついていた。 タバコを圧し消して部屋を出た。廊下に出ると妹の彩もちょうど部屋から出てきた。 「おはよう。奏ちゃん、今日は早いじゃん」 「ああ。なんか二度寝できなくて」 彩はじっと見つめてから言った。 「…今日、お寺行くんでしょ?」 僕は頷くことで答えた。言葉で返すのがなんかちょっと嫌だった。 「行く前に顔の筋肉、マッサージした方がいいよ。神様がどれだけ寛大か知らないけど、そんな顔見られたら、ご利益得られないかも」 「わかった。入念にやってから行く」 口ではそう答えたけど、僕は思った。 神様なんて、いるのかよ? 昼下がりに僕は出かけた。 目的の場所に行く前に寄り道をした。小学校前の陸橋。僕は持ってきた花を供えて、線香をあげて、手を合わせた。 今日で五回目の、毎年やっていることだ。でもどこか形式的で、いつも現実から離れてる感じがしてしまう。 しばらくその場に佇んだ。それから来た道を戻り、角を右に折れた。 空はいつの間にか曇りだしていて雷の音が遠くに聞こえた。この時期は毎年聞く、夏のスタートラインのような雷だ。 今日、鳴らなくてもいいだろうが。僕は忌々しく雲を睨みつけた。 参道の緩い坂道を歩くたびにネックレスのヒスイの指輪がなだめるように胸を叩いた。 右手に石段が現れて、それを上りきり、小学校の裏手の道を抜けて、突き当りの角を左に曲がった。 僕はこの道を見上げながら歩く。背の高い木々は伸ばした枝を重ね合い、心地よい木陰を生み出し、木洩れ日がきらめいていた。 ──木も手を繋いでるみたいね。 声と仕草が蘇る。かつて僕の手を取ってくれた細く白い手がほんの一瞬だけ見えた。 彼女は上を向くのが好きだった。 「パパの好きな野球選手は不調の時も絶好調と言ってたんだって。自己暗示よね。それと同じで上を向いてれば、沈んだ気分だって、いつの間にか上向きになると思わない?」 という理由から、らしかった。 倣って上を向いてみるんだけど、気分はいつもどこか沈んでいて、浮かんでこない。 僕はそのまま歩いて、ぶつかった分かれ道の一番左を進み、坂を下ってそば屋の脇に出た。左に折れて少し行くと山門の前に出た。 ──水の匂いがするぅ。 全体で呼吸するように揺れる長い黒髪と羽のように広げられたしなやかな腕が浮かんで、すぐに消えた。 残念だけどその匂いは未だにわからない。 石段を上がり、境内を左手に進むとナンジャモンジャの木の前に立つ女の人が見えた。近づくにつれて顔がはっきりする。前にここで何度か見かけたことのある人だった。 視線を引き剥がし、左側に向けた。僕が目指すのは、その奥にある池だ。 僕は鯉が飲み込んだ指輪を思い出す。 五月の誕生日にあげた、安物だけど初めて買ったヒスイの指輪。ひと月もしないうちに池に落ちて、鯉の胃袋に消えた。 だからもう一個、買ったんだ。あんなに悲しそうに謝るからさ。 でも二つ目の指輪は今、僕の胸元で揺れている。 五年前の今日。 夕方、ここで待ち合わせていた。僕はもう一つの指輪を渡そうと考えていた。 僕は石碑を読んだり、湧き水で手を洗ったり、驚く顔を想像して待っていた。のん気にも時おり鳴る雷に雨の心配なんかしながら。 いきなり大きな雷鳴が轟いて、震動が伝わってきた。落ちた、と思った。しばらくすると近くで救急車のサイレンが聞こえた。 山門が閉められて境内にいれなくなっても、僕はなにも知らずにただ待っていた。 彼女はとうとう来なかった。来れなかった、と言った方が正しい。 そんな彼女を、僕はまだ待ち続けている。 女性の横を通り過ぎる時、手のひらに置かれた指輪が見えた。僕はとっさに訊いていた。 「あのっ、それ、どうしたんですか?」 「もらったの。池の方から歩いてきた、長い黒髪の女の子に。大切にして下さい、って」 頼んで見せてもらった。ヒスイの指輪だ。内側にはイニシャルで並ぶ僕と彼女。 「あの…彼女、笑ってましたか? 夢の中だとずっと泣いてて謝ってばっかりなんです」 「君さ、夢の中でもそんな表情してるの? きっと、そのせいだと思う」 言い終わると女の人の携帯が鳴った。背中越しに来てくれたら関係を続けましょ、という言葉がはっきり聞こえた。それと対照的に会話の終わりのさよならは薄く小さかった。 指輪を返して、会話が気になって訊いた。 「失礼ですけど、待ち合わせですか?」 「ううん」 「あの〜、前にここで男の人と歩いてるの、見かけたことあったんですよ」 「見られてたか。…でも今日は来ないのよ。日曜だもの。彼ね、休日は良いパパだから会えたためしがないの」 「えっと…辛い恋愛ってこと、ですか?」 「恋のあとに愛があるから、恋愛って言うのね、たぶん。だとしたらあたし、なにしてたんだろ? だまされちゃったかなぁ…」 「よくわからないですけど、今ここにいる、ってことが愛かもしれないですよ」 「…なにクサイこと言ってんの?」 「それにだまされたってことは、信じたってことですよね。そう考えると上を向いてる気がしませんか?」 女の人は泣きだしそうな顔になった。 僕は自分の言葉の中に彼女がいた気がして嬉しくなった。遠慮して小さく笑った。 笑いが消えると、あることを思いついて、池に走った。ほとりで首に下げたチェーンから指輪を外して、池の中に落とした。 目を閉じて、彼女に宛てたメッセージを強く、強く思い浮かべた。 「水に祈りを捧げてるみたいね」 「彼女の名前。水に祈る、でミズキなんです」 「あたしもミズキよ。瑞々しい季節、で」 僕らは初めて目と目を合わせて笑い合った。 「なんかお腹すいちゃったな。ねえ、おそば食べるの付き合わない?」 少し迷ってから僕は頷いた。そういえば、今日はほとんどなにも口にしていなかった。 歩き始めて山門をくぐった時、昔嗅いだことのある柔らかな匂いが鼻をかすめ、僕は振り返った。 …神様ってちゃんといる。そう思えた。 あの触れるだけで照れた長い髪が、あのまともには見つめられなかった大きな瞳が、あの鼓動が走り出してしまう眩しい笑顔が、そこにあった。左手薬指にはめたものを見せつけるように突き出して立っていた。 僕も笑い返した。けれど見えてる世界は瞬く間に濡れていった。 合わせていた視線を深く頷いて解くと、彼女は大きく微笑んで池の方へと姿を消した。 僕は、久しぶりの温かい液体を静かに拭って、また歩き出した。 (了) ----------------------------------------------------------------- <著者紹介> 田保 冬真(神奈川県大和市/27歳/男性/フリーター) |
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