<第2回応募作品>『笑顔の水神』著者:金子 奈築
2007 / 08 / 03 ( Fri ) 元三大師堂で護摩供養が始まった。
私は般若心経を空で言えるようになっていた。二年前は神や仏を信じるような性格じゃなかったのにと、内心、おかしく思う。 あの時、彼は確かに私の目の前にいた。もしかすると、いやきっと、縁結びの神である深沙大王様の化身だったのだろう。 炊かれた護摩木が、火花を散らしている。 二年前の六月― 私は短大生の親友の麻紀から、彼女のアルバイト先の居酒屋の合コンに誘われた。男性従業員が連れてきた友人の一人が彼だった。 大騒ぎをしているメンバーの輪に入らず、 そうかといって仲間に入れなくて困っているような雰囲気でもないような、静かな笑みを浮かべていた。 「彼は東大生なんだって」 こっそり囁いてきた麻紀に、ふうんと私は興味なさそうに返事をした。 「城山君、瑞穂が気に入ったって言ってるよ」 麻紀がとんでもないことを抜かす。 「ありがとう」 彼が私に笑顔を向けた。 すごくかっこいいという類の顔ではないけれど、所謂爽やかなタイプというやつだ。 「今の嘘。そうじゃないから」 私にはその時、つき合っていると言えるのかどうかわからないような存在の男性が三人いた。彼とは明らかに違う陽気な遊び人タイプだ。 でも、東大か……なかなか出会えるタイプじゃないし、つき合ってみてもいいかも。それにこういうチャンスは二度とないだろうし……。はっきりと否定したにも関わらず、いろいろな考えが頭をよぎった。 「僕じゃ駄目なのかな?」 彼は先ほどと同じ笑顔だった。 楽しそうにはしゃぐ仲間を見ている時と、私に「ありがとう」と言った時と、まるで笑顔のお面をかぶっているかのような、寸分も違わぬ笑みだった。 これは油断ならないと思った。気持ちの変化が顔に出ないよう、作り笑いをしているのだ。しかも完璧に。心の中では相手をせせら笑っているに違いない。しかもエリートだし……。 「その笑顔よ」 思わず口をついて出ていた。 さすがに彼の顔から笑顔が消えた。 「嘘っぽいもの。さっきからコピーしたみたいにおんなじ顔して。なんか企んでいるんじゃないの?東大だし。頭良いみたいだし。ルックスだって悪くないじゃん。本当はそうやって、人のこと、ばかにしてるんでしょ?」 仲間が騒ぐのをやめてこちらを見ている。 「そんなことないよ」 彼はうつむき加減にまた微笑んだ。 「君の方が、僕よりずっと魅力的だよ」 「嘘」 「嘘じゃないよ」 私はテーブルを叩いた。 「じゃあ、今週の土曜日会って」 仲間がおおーっと冷やかしの声を上げた。 「いいよ。どこにする?」 彼の冷静で柔らかい口調に、段々腹が立ってきた。 「わざわざ出て行くの面倒だから、うちの近所の深大寺に二時」 気を落ち着けようと、私はタバコに火をつけた。 「わかったよ」 彼が携帯をポケットから出した。 「連絡先なんか教えるわけないじゃん」 タバコを挟んでいる私の指が震えていた。 彼は何事もなかったかのような涼しい顔で、携帯をポケットに戻していた。 動揺を見せない彼が憎らしかった。 土曜日の深大寺は曇り空だった。 山門前の階段脇で彼が手を振っている。 「来ないから心配したよ。事故にでも遭ったんじゃないかって」 また私の嫌いなあの笑顔だ。 「わざと遅れてきたの」 待ち合わせの時間は一時間も過ぎていた。 「そう。じゃよかった」 また彼が笑顔を向けてきた。 「ねえ、ちょっと。わざと遅れてきたって言ったじゃん。人の話、ちゃんと聞いてる?」 「聞こえてもいないのに、いい加減に返事なんかしないさ」 彼がまた笑った。 絶対に今日はその笑顔の化けの皮を剥がしてやる。私はそう思っていた。 土曜日ということもあって、座れそうなベンチを探したが、見当たらなかった。十五時を回っていたので、甘味処もほぼ満席状態だった。 「歩く」 彼は「歩く?」と尋ねたようだが、同時に私と全く同じ言葉を発していた。 彼より先に、本堂への階段を上り始めた。 「足、痛くない?」 振り向くと、まぶしそうな表情をしている彼と目が合う。 私はヒールの高いミュールを履き、彼とは不釣合いなくらい派手な格好をしていた。ミニスカートにキャミソールの私を、すれ違う男性達がじろじろと見ていた。 そうか。やっぱり。好青年ぶっていても、さすがに彼も男という性には勝てないよね。 あっさり勝負がついたような気がした。 「いいよ」 先に本堂の砂利道にたどり着いた私は斜めに彼を見上げた。 「いいよって、何?」 穏やかな口調で訊いてきた彼の手首を?んで、人気の少ない木陰の方へ歩いた。 「私を魅力的って言った意味わかった。素直にホテル行こうって言えばいいじゃん」 彼が私の手を振り払い、すごい力で私の腕を?んで引き寄せた。 「僕は女性を殴ったりもしないし、自分の主義に反することもしない」 強い眼差しだった。そして、この柔和なイメージの彼のどこからこんな力が出てくるんだろうと思うほどの力だった。 彼の目をしっかりと見ていた筈なのに、いつの間にか彼が見えなくなっていた。 茶屋通りのベンチに座ることができた私は過去のことを雪崩のように彼に話していた。 いじめで高校を中退したこと、自殺未遂をしたこと、援助交際をしていたこと、それらのせいで、家族に疎まれていること……。 彼は黙って聞いていた。そして最後にこう言った。 「そんな瑞穂ちゃんだから、僕の笑顔が偽物だって見抜けたんだね」 梅雨空の下で、彼だけが青空のように見えた。 「僕は素顔の自分と向き合うのが本当は怖いから」 何度聞いても、それ以上彼は自分のことを話さなかった。 私の派手な服装が心配で、彼は家まで送ると言って聞かず、タクシーを呼んだ。そのタクシーの中で、私は彼の連絡先を聞いたが、彼は私の連絡先を聞こうとしなかった。 「瑞穂ちゃんに任せるよ」 どきっとするほど優しい笑顔だった。 そして彼の最後の姿だった。 何度彼の携帯に連絡しても、全く返事が来ない。親友の麻紀は海外旅行へ行ってしまっていたので、消息を聞くこともできない。 私はイライラしていた。彼と会った後、つき合っていた男性達とは別れてしまっていた。洋服の趣味も変えた。 まさか、私を更生させようというただのおせっかいだったんじゃないかとも思った。もしそうだとしたら、なんて汚いやり方なんだろうと悔しかった。 深大寺の本堂に祀られている阿弥陀如来様に何度も謝りに行った。神聖な場所で彼を誘ったことに対する仏罰が下ったのだ。でも、彼への想いは純粋なんです……。と念じた時、自分でも驚くほどはっとした。恋をしている……それを認めた時、深大寺は縁結びの神で有名だということを思い出した。 真相を知ったのはそれから一ヶ月後のことだった。 私と会ったあの日、彼は自宅の最寄駅から 自宅までバイクで帰る途中に事故を起こしていたのだった。 飛び出してきた子供を避けようとして転倒し、反対車線のダンプに巻き込まれてしまったという。即死だった。 彼の父親は家出をしたまま行方不明だということ、母親は過労から脳梗塞で倒れて、病院で植物人間状態だということ、彼は学校へ通いながらアルバイトで生計を支えていたことなどを聞いた。 その時、あの笑顔の秘密がわかったのだった。逃げ出したくなるような現実を誰にも悟られないよう、隙間ない笑みで武装していたのだ。今までも、これからも、順風満帆で幸せ色の人生であるかのように。 この弱い私のように、不機嫌で意地悪で、すねている自己中心的な人間だったら、もっと長生きできたんじゃないかとも思う反面、彼とはもう、この世では二度と会えないけど、彼にふさわしい素敵な女性に、人間に、なっていけるような生き方に変えていこうと誓った。 幸せな恋にも、そして未来にも、縁がないと思っていた私と、どんなに辛くても、悲しくても、幸せになろうという、ひたむきで純粋な、前向きな気持ちとを、彼が強い縁で結んでくれたから。 目の前でパチッパチッと飛び散る護摩木の火の粉が、彼の清らかな魂の笑顔に見えた。 (了) ----------------------------------------------------------------- <著者紹介> 金子 奈築(調布市/36歳/女性) |
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