<第1回応募作品>『らぶひこうき』
2006 / 07 / 28 ( Fri ) 「あーあ、つまんない」
真希子は両手で頬杖をつくと、ぼんやりと窓の外を眺めた。いつもなら、同じクラスの仲良しメンバーで一緒に勉強するのに、ここ最近、真希子は学校が終わるとすぐに帰宅し、たった一人で受験勉強をしている。だって最近、美雪ちゃんは坂野くんと、さっちんは山田くんと。そんでもって、タカちゃんは広野くんと付き合いだしたから。公立高の受験が終われば、中学はすぐに卒業。どうせみんなバラバラになるのだからと、最近クラスのあちこちでカップルが誕生しているのだ。真希子はというと、カップルどころか好きな人すらいない。“好き”という感覚が、まだよくわからない。 「あーあ、つまんないなぁ」 “つまらない”を二度繰り返したところで、「ちょっと真希ちゃん」という台所からの母の呼び声に、現実に引き戻された。二階の自室から一階の台所に降りてみると、母は大きな白いタッパに漬け物を詰めている真っ最中だった。 「これ、おそば屋の由美子おばちゃんのところに届けてちょうだい」 「えー、あたし受験生だよ?。受験を一週間後に控えた娘にそんなこと頼む? ふつー」 「どうせ、勉強なんてしてないんでしょ? ま、息抜きにいいじゃない。おばちゃんのお店、これがないと大変なのよ」 だったら自分で届けりゃいいじゃん、という言葉をごくりと飲み込んで、真希子はしぶしぶ母親から漬け物がいっぱいに詰まった重たいタッパを受け取ると、自転車の荷台に積み込んだ。そして勢い良くペダルをこぎ出す。 由美子おばちゃんは、調布の『深大寺』の門前で、そば屋を営んでいる。真希子の母親の漬け物は、そこでそばの添え物として客に出される。 三鷹に住む真希子の家から、『深大寺』までは自転車でおよそ十五分。途中森のような植物園を抜けると、甘味処やそば屋の並ぶ街道に出る。その中の一軒が、由美子おばちゃんの店だ。 もう三月になろうというのに、ぴゅーっと吹き付ける風は、まだまだ冷たい。コートを着て、自転車には手袋も欠かせない。 由美子おばちゃんの店の前に自転車を止めると、真希子は「よいしょ」とタッパを持ち上げ、店の中に入った。 「こんにちはー」 お客さんの邪魔にならないように、店内をスルスルと抜けると、直接厨房に向かって声をかける。すると奥から「あらあら」とエプロンで濡れた手を拭きながら、由美子おばちゃんが出てきた。 「あの、これ。お母さんから頼まれて」 「悪いわねー、真希ちゃんもうすぐ受験なのに」 わかってるなら、頼まないで……と思ったけれど、ここはにこやかに「いいえー」と答えておく。 「そうそう、真希ちゃん。あなたここにはしょっちゅう来てるけど、『深大寺』の本堂はお参りしたことある?」 「いえ、ないですけど……」 そういえば、そうだ。由美子おばちゃんの店へは、もう何度も来ているけれど、いつもここ止まりだ。この店を出て、自転車をUターンさせて、来た道をそっくりそのまま戻っていくだけ。このすぐ先にある『深大寺』には、まだ一度もお参りをしたことがなかった。「あらー、じゃあ、一度ちゃんとお参りしてみたら? 学業成就ではないみたいだけれど、縁結びの神様なのよ。ほら、真希ちゃんも春から高校生なんだし、ね?」 由美子おばちゃんは、意味深な笑みを浮かべながら、特に後半を強調した。 真希子は「あはは……」と空笑いをしつつも、おばちゃんの店を出ると、自転車は店の前に置いたまま、『深大寺』の山門をくぐった。財布を見ると丁度五円玉が一枚あったので、賽銭箱にチャリンと放り込む。何をお願いしようかと迷ったけれど、学問の神様でないのであれば、やはりあれなんだろうか……。由美子おばちゃんが言っていた縁結び……。正直真希子はまだ人を好きなったことがなかった。“つき合う”ということに関してもよくわかっていない。でも、ここでお参りすれば、何か自分にも良縁があるかも知れない。 「私にも好きな人ができますように……」 真希子が合わせた手を解き、ふと視線を横に移すと、「おみくじ」の文字が目に入ってきた。しかも「おみくじの元祖」を示す添え書きもある。受験を前に、凶でも引いたら縁起が悪いと、初詣に行った時も今年は引くのを控えていたけれど、「おみくじの元祖」と言われると心は揺れる。気づくと真希子は、黒い筒状のおみくじを夢中になって振っていた。 筒の中から一本の棒が出て来る。お札やお守りの店番をしていたお姉さんが何番ですか? と聞いてきたので、棒に書いてある番号を告げると、ふたつ折りにしてその番号のおみくじを手渡してくれた。 真希子がドキドキしながら、渡されたおみくじを開くと、そこに書かれていたのは「凶」。 「げ……。やっぱ引かなきゃよかった……」 生まれてこのかた十五年。何度もおみくじを引いてきたが、「凶」なんて初めて引いた。ショックを受けつつも、真希子はあることを思いついた。そうだ。飛ばしてしまおう! 真希子は、凶のおみくじを畳んで長方形にすると、それで小さな紙飛行機を作った。凶よ。私の悪運よ、風に吹かれて飛んでいけー。 高台から勢いよく放つと、ゆらゆらと飛んで行く紙飛行機の行く末を身守った。すると……。 「イテっ」 「?!」 階段の下を歩いていた男の子の額に、真希子が放った紙飛行機が見事にあたり、はらりと地面に落ちた。 男の子は真希子の紙飛行機を拾うと、きょろきょろと飛ばし主を探し始める。 やばっ。もうすぐ三月と言えど、風はまだまだ冷たい。しかも夕方五時を回り、辺りはすでに薄暗くなってきている。そんな深大寺境内は、さっきまで誰もいなかったのに。この人、どっから出てきたの?! 真希子は恥かしくなって逃げ出そうとしたが、いかんせん下からは丸見えで、逃げ場がない。おろおろする真希子を、男の子の視線がとらえた。 「これ? あんたの?」 「そ、そう……だけど……」 「うわー、凶やんか。あんた凶飛ばして俺にぶつけてんや。俺にまで凶がうつってまうやんか」 関西弁だ。東京生まれの東京育ちの真希子にとって、テレビでは聞き慣れているけれど、生で聞くのは初めてだ。突然のことに戸惑いが隠せず、一瞬言葉が出なかった。 「なんや、凶をうつしといて、あやまりの言葉もあれへんのか」 「あ、ごめんなさい!」 真希子は男の子の言葉に我を取り戻すと、咄嗟に謝った。 「人に謝る時は、そんな高いとっからやなく、ちゃんと下に降りて謝るもんやろ?」 「あ、あたし……」 真希子は慌てて階段を駆け降りると、男の子の隣でもう一度謝った。 「あははは、そんなマジにならんでもええって。ほら、これあんたのおみくじ。いくら凶やったからゆうて、こないな紙飛行機にして飛ばさんと、ちゃんと結びや」 そう言うと男の子は、真希子の手をとり、手の平を開かせると、しっかりとそこに真希子が飛ばしたおみくじを握らせた。 「おみくじは返したで。ほな、さいなら」 真希子に背を向けたまま、男の子は二、三度手の平をひらひらと振ると、そのまま山門のほうへ歩いて行った。 真希子の手には、凶のおみくじと、そして、男の子の手のぬくもりが残された。 何だろう、この気持ち。この男の子と、もっと話してみたい。年齢とか、住んでいる場所とか、もっともっとこの男の子のことが知りたい! 真希子がそう思った時、すでに男の子の姿は消えていた。 一ヶ月半後。真希子は希望の高校に無事合格し、今日から高校生になった。これから始まる新しい生活。期待半分、どこかむなしい気持ち半分……。なぜなら真希子の心の中には、まだ一ヶ月半前に『深大寺』で会った、あの男の子がいたから。あの時感じた、胸の高なりというか、初めて味わう抑えようのない高揚感が、感覚としてしっかりと真希子の心の中に残っていたのだ。もう一度あの男の子に会いたい。でも、きっと彼は関西の人。東京にいるはずがない……。そう思って真希子がため息をついた時だった。 「何、入学式初日からため息ついてんねん」 不意に真希子の背後から、声がかかった。それも、聞きたくて聞きたくてたまらなかった関西弁。うそっ! 真希子が、勢いよく後ろをむくと、そこには「まっさか、おみくじで紙飛行機を作るような罰当たりと同じ高校になるとはなー。俺の初めての東京生活も、先が思いやられるわ」と笑いながらぼやく、あの時の男の子の姿があった。 『マジ?! 信じらんない!!』 おみくじは凶だったけれど……。縁結びの神様は、本当にいるのかも知れない。 <著者紹介> (東京都三鷹市/28歳/女性/会社員) |
<第1回応募作品>『深大寺レンアイメモリーズ』著者:黒米 譲二
2006 / 07 / 21 ( Fri ) フウーっと真夏の青い空に向かって、ため息をついた。また遅刻かぁ!トモエは呟いた。深大寺に古くからある蕎麦屋の角に大きな桜の木がある。その桜の木がトモエ達のいつもの待ち合わせ場所だ。真夏だけれどこの辺りは緑が多く、日陰はわりと過ごしやすい。そういえばタクヤは昔っから時間にはルーズだったなぁ。小学校の頃からいつも遅刻してた。あっと、今日の私もルーズソックス!!・・・・・あの頃のタクヤは可愛かったなぁ。大きなグリグリ眼してて、いつもズボンからシャツがはみ出していて、髪はもじゃもじゃで、出ベソで・・・・・・「トモっ!」と耳もとで声がしてビックリしてひっくり返りそうになった!!そこには真黒に日焼けしたタクヤの顔があった。あのグリグリ眼と、野球部特有のイガグリ頭も健在だ。
「わー、ビックリした」 「なに一人でニヤニヤしてんだよ。俺のことでも考えてんのか?」 タクヤはそう言いながら右手の親指をたてる得意のポーズを作る。 「遅いぞ!タク。まったく!それにだらしなーい!」 彼のシャツは制服のズボンからはみ出していないことはない。 「気にしない、気にしない!」 「そんなんで、よく野球部のエースやってるねぇ」 「うっせーなぁ、格好で野球はやんねーんだよ!」 幼なじみの二人はまるで兄弟のような会話を楽しんでいた。それは青春真っ只中の高校二年生の夏だ。 ハァーッと真赤になった手のひらを自分の息で暖める。今朝からの大雪で深大寺はいつもとは別世界。辺りに人影はなくピーンと張り詰めた空気が漂っている。木の枝も、境内から続く道も、池のまわりの凄然と並んだ石ころ達も、みんな、みーんな真白だ。やっぱ来ない!トモエは囁く。 残念ながら高校生最後の夏の大会でタクヤのチームは5回戦で敗退した。甲子園を目指し日々練習に明け暮れていた彼らにとって、一つの節目を迎えた。最後の挨拶の時、今まで一回もトモエの前で涙など見せたことのない彼が号泣した。そんな彼を見て(そーかァ、私も負けたなァ・・・野球に・・・)トモエはタクヤの涙に目を潤ませながらそう思った。 不意に頭にドーンと衝撃をうけた。なに?何?突然、スローモーションの映画のように真っ白い粉がキラキラと輝きながら、地面に舞い落ちていく・・・・・・。 「あっ、はっ、はっは」 「あっ、やったなー」 トモエの足元には、大きなおおきな雪球のかけらが、転がっていた。 タクヤの部活が唯一ない金曜日の放課後、トモエはタクヤと深大寺の神社の境内でデートをする。それは9月の初めのまだ残暑が厳しい日だった。 いつものように二人が、他愛のない会話に花を咲かせていると、そこに一匹の子犬が迷い込んできた。「あっかわいい、こっちおいで」動物好きのトモエはすぐにその子犬を抱き上げた。その姿にタクヤは微笑む。子犬はトモエの頬をペロペロと舐めはじめる。「くすぐったーい」と首をすくめる。タクヤは、ハッ!とした。はじめ微笑ましかった姿が、急に何故か艶かしく感じられる。こんな感じは今までで初めてだ。うっすらと汗をかいたトモエのうなじや、汗ばんでうなじに纏わりついた後れ毛を、直立不動に近いかたちで見つめる。そんなタクヤに気づかずに、トモエは無邪気な笑顔でこちらを振り返った。えーっ・・・・うそっ、突然タクヤに抱きすくめられたトモエは言葉を失った。「キャン」子犬はトモエの腕から逃げていった。「ちょっと、痛いよぉ」なんて声を絞り出しても、タクヤはしっかりとトモエを抱きしめ、その力を緩めることはしなかった。しばらくすると、どちらからともなく境内の床に倒れこんだ。タクヤが不器用に唇を重ねてきた。トモエは静かに瞳を閉じる。遠くから、いく夏を惜しむかのように、蝉の鳴き声が聞こえてくる。 「お母さん、こっちにおいでよ。ほらっ、こんなに綺麗」 紅葉した木々を見ながら、6才になる娘が小躍りしながら得意げに喋っている。深大寺の紅葉はその見事さに、東京近郊から人々が集まってくるほどだ。もともと感性が豊かなトモエの長女も紅葉の艶やかさを目の前に、感じたままを表現している。無邪気な彼女の振る舞いに、まわりにいる人々も笑顔で通り過ぎてゆく。 あれからもう20年になるなぁー、昔の懐かしい思い出が頭をよぎる。やがてあの境内が目に入ってくると、以前のタクヤとの思い出がいっそう強く思い出される。 9月のまだ暑かったあの日、キスの後、わたしはタクヤを拒んだ。何故?なんであの時あんな態度をしてしまったんだろう・・・。なんて、最近妙にしんみりと考えたりする。 高校卒業後タクヤはある有名な大学の野球部に入部した。かなりの名門とあってタクヤは練習についていくのが必死だった。トモエは服飾の専門学校に通いながら、その帰りによくタクヤの練習を見にいった。初めのうちはトモエが見にいくと得意げな表情を見せていたタクヤも、半年程すると表情に余裕がなくなっていった。トモエがショックだったのは、彼がだんだんとトモエを無視するようになっていったことだ。誰か好きな人でも出来たのね・・・?彼女は次第にグラウンドから足が遠のくようになった。 タクヤはトモエを嫌いになったわけではなかった。別に他に好きな娘がいたわけでもない。まだ未熟な彼にとって、野球とトモエの両方にいい顔が出来なくなっていただけだ。レギュラーになるまでは大好きなトモエを忘れよう。真剣に野球に打ち込んでみよう!と彼は思っていた。と同時にレギュラーになれたらトモエに本気で告白しょう、なんて漠然と、でもそんな風に決意していた。 人生には、ほんのちょっとしたボタンの《かけちがい》がある。 ひらり、ひらりと桜の花が散っていく。深大寺の桜はちょうど今見頃だ。ある天気の良い日曜日トモエ達は家族で花見にきていた。 「サクラってほんとうに命が短いから、可憐だわ」 流石にトモエの娘の言う事がふるっていた。あっ。あのお蕎麦屋さんの角の桜の木・・・トモエは眩しい眼差しでその大きな木を見ていた。その木には、まわりに比べ一際美しい桜が、枝からこぼれんばかりに咲いている。少し甘酸っぱい思い出が、彼女の脳裏を駆け巡る。(この思い出だけは胸にしまっておこう)なんてニヤニヤしながら歩いていた。「あっ、すみません」ポーッとして歩いていた彼女は人とぶつかってしまった。「大丈夫ですよ」と言われ、ホッとしてその男性に眼を向ける。(きちんと答えてくれると気持ちいいんだよねぇ・・・・最近は世の中が殺伐としちゃって・・・・あれっ!!)そこには紛れもなく、思い出の主人公のタクヤがいた。少し頬はこけていたが、相変わらずの浅黒い顔がそこにあった。お互いギョっとして眼と眼が合うが、一瞬のうちにそらしてしまった。二人とも確信はあるが、声はかけずにすれ違ってゆく。ギューンとした胸の高まりを感じながら、今にも走り出したい衝動を抑えながらトモエは歩いていく。止まって振り返りたい気持ちはあるが、雑踏の中、止まるほどの言い訳は見つけられない。どんどんと彼からは距離が離れていく。 どんどんと、どんどんと離れていく。 フウーっ、と一回深いため息をつくと、トモエは決心し、えーい!!と思い切って振り返ってみた。花見客で人々がごった返す中、やっと彼らしい後ろ姿を見つけた。彼は子どもと手をつなぎながら、振り返りもせず歩いていく。(やっぱり人違い?) するとっ、タクヤはあっちを向いたまま右手をすっと上に挙げた。桜がたくさん舞い散る天に真っ直ぐに手をのばし、親指をたてる得意のガッツポーズをつくって見せると、その後バイバイっと手を振って、歩いていった・・・・・ツーッと、一筋の涙がトモエの頬をつたっていく。(タクヤ、やったね!) その瞬間にお互いの幸せを確信したトモエは、桜が舞う爽やかな春風の中、胸を張り、颯爽と歩いていった。 もう振り返ることはない・・・・・ <著者紹介> 黒米 譲二(東京都東大和市/42歳/男性/歯科医師) |
<第1回応募作品>『えんむすびの亀様〜深大寺そばのおそばにて』 著者:釛子ふたみ
2006 / 07 / 14 ( Fri ) 初詣でひいたおみくじは大吉だったのに、今年最初のイベントは、ずっと好きだった彼女と親友の結婚式だった。付き合っているのは知っていたから、そのうち、そんな日が来ることは予想できた。が、ショックだったのは、彼女の言葉だ。
「私、本当は羽鳥さんが好きだったのよ。だけど、一度も話しかけてくれなかった」 嫌われていた方がまだましだ。 僕、羽鳥鷹雄は、名前は勇ましいが気が小さくて特に女の子にはからきしだらしがない。二十八年間、何回女の子と話をしたか… 梅の香おりに誘われて、神代植物園をひとまわりした後、深大寺側の出口から外に出た。二人の幸せを願い、自分の健康に感謝してから帰ろうとすると声をかけられた。 「羽鳥さん、ですよね」 声の方を見たが覚えがない。若い…きれいな女性だ。意気地なしとはいえ、僕だって男だ。こんなきれいな人を見たら忘れるわけはない。 「…はい、そうですが…」 「○×社の受付の宮城千鶴です」 女性は、仕事でよく行く大手の会社の名前を言った。受付嬢なんてご縁があるわけないので顔を見たことがなかったのだ。 「わからないんでしょう。羽鳥さん、私の顔、見たことないもの。ふふふ」 女性は春のような声で笑った。 「すいません」 髪型が違うから、とか、洋服が違うから、とか気のきいたことを言えばいいのかもしれないが、そんなこと口に出せるわけもない。それにしても覚えててくれたなんて、僕は幸せ者だ。 「今日、にゃんこの命日なんです。この上に動物慰霊塔があるんです」 宮城さんは言った。 「慰霊塔ですか。知りませんでした」 「羽鳥さん、動物、好きですか」 僕は、好き、という言葉にうろたえてしまったのだろう。 「子供の頃、動物の入った県名を言えと言われて、宮城県と言ったことがあります。正解は熊本とか、群馬とかだったんですけど」 と、僕が早口で言うと、 「み、ヤギ? あはははっ」 宮城さんは大笑いした。 「子供の頃から漢字、苦手で。ごめんなさい、変な話して。ネコを悼んでいたんですよね。僕も、カメを飼っていますから気持ちわかります。亀吉がいない人生なんて…」 「カメ飼っているんですか」 宮城さんはきらきらした目で僕を見つめる。僕は目をそらし、歩きながら話した。 「小学生の頃、縁日で出会ったんです。大学進学で上京する時、つれて来ました。十五年も一緒にいます。僕の一部です。亀は万年と言いますから、僕が死んだら、亀吉はどうなるかと思うと心配になります」 「うちのパンダは十四歳だったわ、猫としては長生きの方ね」 「パンダ?」 「猫の名前です、パンダ柄だったので。変ですか?」 「いえ、宮城さんは鶴だし、僕は鷹ですから、猫がパンダなのは自然の流れです」 僕の脳裏にパンダに抱かれた、いや、パンダ柄の猫を抱いた宮城さんの姿がうかんだ。なんて幸せな猫なんだ。ときどきほっぺにちゅうなんてしてもらったんだろう。十四年のにゃん生を心行くまで満喫したに違いない、うらやましいぞ、パンダ。そのいなくなった大きな空洞のすみに僕を入れてくれ。 「この池、亀島弁才天池って言うんです、結婚を反対されていた二人を大きな亀が助けたんですって。亀って夢を運んでくれるのよね」 亀が立派なのはうれしいが、結婚という言葉が僕の胸にぐさりとつきさし、僕はまるで明後日のことを言ってしまった。 「こ、このあたり、てづくりそばが体験できるんですね」 近くの張り紙を指差す。 「あら、おもしろそう。やってみたいわ。おそば、大好きなんです」 「ぼ、僕もです。楽しそうですね」 「お料理するんですか」 「一人暮らしですから」 夢のようなひと時を僕は心から感謝した。くだんの彼女のことなど、すっかり忘れていた。本当は、そばよりも、かつどんとかラーメンとかカレーの方が好きだ。二十八の健康な男ならそんなものだ。でも、千鶴さんが好きなものは僕だって好きになるさ。なんたって、結婚したら羽鳥千鶴だぜ。ぴったりじゃないか。 鶴と、鷹と、亀。めでたい。 家に帰ると、インターネットで、深大寺周辺でそば打ち体験できる場所と時間をチェックした。 今度こそ、誘うんだ。 あたって砕けてやる。粉々に。いや、砕けてなんかやるもんか。そば粉がそばになるように、僕だって僕だってそばになる。千鶴さんのおそばにゆく。ぬはははは。 「な、亀吉、応援してくれよ」 亀吉に餌をやりながら妄想する。隣に千鶴さんがいて、亀吉のことをかわいい、ってほめてくれるんだ。目をつぶると、いや、つぶらなくても千鶴さんの顔が脳裏に浮かぶ。やさしい笑い声が耳に響く。 数日後、○×会社に意気込んで行ったが、千鶴さんはいない。 「あの、宮城さんは…」 「お休みをいただいております」 「じゃ、こ、これを」 急いで名刺の裏に、『○月×日、午前十時、蕎麦「△」、メン棒持参』、と記して受付嬢に託した。 お昼時、愛妻弁当をニヤケ面で食う親友をしりめに、勇んで社員食堂に行き、蕎麦をすする。千鶴さんを思いながら食べれば、どんなものだってうまい。恋は最高の調味料っとくらあ。親友の顔が僕にかわり、愛妻が千鶴さんにかわる。いやさ、僕が作ってあげてもいい。千鶴さんのためなら料理学校に通ってもいい。婿養子だってかまやしない。 宮城鷹雄。ヤギとタカか? 「蕎麦、うまいか」 唐突に聞いたのは親友だ。ざる蕎麦を手にしている。 「まあね」 「妻がさあ、食事を作ってくれるけど量が少ないんだよね。腹へってさ」 「言えばいいじゃん」 「だって傷つけちゃうかもしれないじゃないか。よかれと思って作ってくれるんだよ」 「ふーん、そんなものなのか」 以前だったら、嫌味に聞こえる言葉だが、今後のためには重要な知識だ。つい身をのりだしてしまう。 「お、うまい蕎麦だなあ」 親友は言った。 「そうか?」 「なんでも、うまいって言っておけば問題はない。だから、練習しているんだよ」 「料理、へたなの?」 「そんなことはない。…ときどき口に合わないだけだ。とにかく、作ってもらった食事は、そのまま食うんだぜ。ソースかけたり、カレーとご飯をまぜたりしちゃだめなんだ」 「なるほど」 人間、余裕があるとすべての人から学ぶことができるのだ。僕はいたく満足して、親友に心から感謝した。 そして、当日。僕は三時間も前から、蕎麦「△」の前に立った。 家族づれ、カップルカップル。 千鶴さんは来ない。 順番を次の人にゆずり、待つ。 僕は泣きそうになっていた。 空は快晴、子供達は元気に走り回る。 カップルはいちゃつく。 そばの香りがしてくる。 千鶴さんは来ない。 三月の空気はまだまだ冷たい。 約束したわけじゃないけれど。 亀吉、助けてくれよ。 慌てて亀島弁才天池に走り、祈る。 深沙大王様、亀様。おねがい。 僕の恋をかなえてくださいませ。 深沙堂に向かい、全身全霊をこめて、合掌。 もしかすると、用事があったのかもしれない、名刺が手にわたってないのかもしれない。 もう、帰ろうかな、と思った時、 「羽鳥さーん」 千鶴さんは現れたんだ。 「ごめんなさい。夕べ、隣家の風鈴がうるさくて眠れなかったんです」 だきついて、お礼を言いたい気持ちをぐっとおさえる。 「この季節の風鈴は怖いですね。けど、何か事情があったんじゃないですか」 僕が言うと、どういうこと、と千鶴さんは怪訝な顔をした。 「風鈴をくれた方の月命日かもしれないし、大切な誰かにメッセージを送りたかったのかもしれません。一晩中なっていたと言うことは、願いが叶わなかったのだと思います…」 僕は妄想癖を発揮してしまった。 「羽鳥さん、やさしいんですね」 「いや…気の毒な人だから許してあげよう、と思って言葉をのみこむのは文句を言えない小心者が腹をたてない手段なんです」 僕はぼそぼそと言った。 「優しいんですよ。苛々していた気持ちが軽くなったわ。ありがとう」 「いえ…そんな」 「ところで、メン棒って何に使うんですか」 千鶴さんはきょとんとした顔で綿棒を取り出した。 「あははははっ」 僕は腹を抱えて笑った。 僕は宮城千鶴さんが大好きだーっ。 亀様、ありがとーうっ。 <著者紹介> 釛子ふたみ(東京都世田谷区) |
<第1回応募作品> 『ヤマボウシの忘れ物』
2006 / 07 / 07 ( Fri ) 五月末、琥珀神社のヤマボウシは、これが見納めだよ、とでもいうように今年も一斉に咲き誇った。
あの白い花のように見えるところは苞で、花は真ん中の細く束になっているところなんだ、と雅夫が自慢げに話していたのを思い出す。 千恵が調布に越してきて、かれこれ十年近くになる。大学生活もあと一年というときに、校舎移転で、多摩と御茶ノ水の二つのキャンパスに通うことになった。しかたなく、どちらにも便利で、安いアパートがあった調布を選んだ。卒業後は、大手町にある会社に勤めるから、アパートも別の場所に替えようかと思っていた。 そんな矢先に、大学の親友が、もう調布にも来なくなるのだから、深大寺周辺を一緒にぶらぶらしようよ、と誘いかけてきた。いつでも行けるからと、深大寺にはそれまで行ったことがなかったのだ。千恵には、思い入れのある場所ではなかった。その日、親友と深大寺近くの蕎麦屋で雅夫と会わなければ、こうして調布にいることさえなかったのだ。 千恵たちと同じように、雅夫も男友達と二人でその店に来ていた。座った席が近かったから、おたがいの会話がもれ聞こえてきた。どうやら千恵たちの御茶ノ水校舎のそばにある大学に、二人とも通っているらしい。学年も来春卒業で同じのようだ。 雅夫の親友がこちらに話しかけてきた。外見とは違い、明るく開けっ広げな話し方に、千恵たちは好意を抱いた。自然な成り行きで、本日限定の深大寺探検隊になってしまった。 千恵と雅夫の両親友は、十分もしないうちに、ずっとつきあっている雰囲気になっていた。気まずい千恵と雅夫は、負けていられないと仲の良いところを装った。 神代植物公園を歩き始めたときだった。会って三十分もしていないのに、千恵と雅夫の両親友は、おどけながら「じゃあそっちも楽しくやるように」と、手を振りながら千恵たちの前から姿を消してしまった。 「何だよ、おいっ」と、むっとした雅夫の横顔は、まるで豆鉄砲を食らった鳩のようだと千恵は思った。案の定、雅夫は、中学生並みの口下手だった。 神代植物公園を出て、水性植物園を散策していたとき、雅夫が話しかけてきた。 「俺さ、大学でずっと体育会だったんだ。四年間、剣道ばかりやっていてさ、のんびり植物なんか眺めることなかったんだ。こんなところに来るのも初めてだし、女の子と一緒なのも初めてなんだ。変なヤツで、ごめんな」 愛想のない喋り方なので、これからどうなるんだろうと千恵は面食らった。だが、自分も偉そうなことはいえない。ハードルが高いから、いつも一人ぼっちなんだ、と親友にからかわれ続けてきた。都内の気楽な週末のデートさえ、誘いに乗ったことがない、おカタイ子だったのだ。だが雅夫にだけは、理由なく気持ちが許せそうな気がした。 千恵はそれから大学を卒業するまで、雅夫と頻繁に会うようになった。御茶ノ水で会うこともあったが、たいていは深大寺になった。 雅夫にとって深大寺周辺は、とても落ち着く場所のようだった。千恵もまた、ここがデートの定番の映画館や、レジャー施設で遊ぶのとは違う、緑と水と歴史のいやしの穴場であるのに気づいていた。 四季折々に咲く花々は目に眩しく、目を閉じて五感で感じようと深呼吸すると、酸素が体中に満たされる思いがする。花の香りも素晴らしかったが、木の香りがこんなにも深いものかを千恵は初めて知った。 「木が放つ匂いは木の言葉なんだ」というデパートの広告キャッチフレーズを、雅夫にいい続けている自分がそこにいた。 雅夫も千恵の興味にあわせているうちに、植物について結構詳しくなっていた。 そんなある日、雅夫は話しておきたいことがあるからと、千恵を強引に琥珀神社のそばまで連れて行った。 「俺が剣道をやっているのには、理由があるんだ。先祖が新撰組の下っ端剣士だったらしくてさ。中学校のときにそれを知って、なんだかかっこよさそうだから、剣道を始めちゃったんだ。それで、その剣士はちょっと変なヤツでね。文学者でいうと太宰治みたいなヤツだったらしいんだ」恥ずかしそうな顔をしながら話す雅夫だったが、ここでやめてはいけないと、一気に喋り続けた。 「それでさ、この剣士のことを慕っている、お千代って娘がいたらしくてね。剣士は、その娘にいつ死ぬか分からないから、自分の代わりだと櫛を渡そうとしたらしいんだ。でも、意地悪な女がいてさ、横恋慕っていうのかな、その櫛を渡してあげるっていって、自分のものにしちゃったらしいんだ。それが、まわりまわってなぜか俺のばあちゃんのところに来たんだ。ばあちゃんが死ぬときに、それを俺に残していったんだ。縁起の悪そうなものだから、俺は欲しくなかったんだけれど、おふくろは罰が当るからとっておけって。でね、お前の気に入った女の子にあげろとか遺言状に書いてあったらしいんだ。どうしようかと思ってさ」要領の得ない話は、千恵でなければ聞いてもらえなかっただろう。 「困ったものね。縁起の悪いものは、始末したくなったんだ」と、舌を出して千恵はちょっと意地悪く話を振った。 紅潮した顔の雅夫。始末したくなったわけではなかったが、知恵に本心をいい当てられ頭をかきながら、結局、柘植で作られたその櫛を持っていてもらうことになった。 照れくささをごまかすためか、雅夫は琥珀神社に咲く花について、持てる知識を千恵に披露する羽目になった。 雅夫から不思議なプレゼントをもらって、二週間ぐらい経った頃だった。おたがい卒業までの用事をあれこれ済ませるのに忙しくて、しばらく会えなかった。 そろそろ千恵から電話をしようかなと、夕方の六時前後にアパートに戻っていたときだった。 かかってくる来るはずもない、警察から電話がかかってきた。千恵はどきりとしつつ、嫌な予感がする。昔からこういう千恵の予感はよく当った。父が亡くなったときもそうだったからだ。 御茶ノ水の救急病院で対面した雅夫は、顔に白い布を被せられ帰らぬ人になっていた。警部らしき人物から、説明を聞いた千恵は愕然とする。 下町にある、雅夫のアパート付近のコンビニで起きた事件だった。 小雨のその日、客を装った二十代の男がミニバイクでコンビニに乗り付け、レジの店員をナイフで脅した。 レジから離れていた雅夫だったが、すぐに強盗であるのを感じとって行動に出る。 手に持っていた傘で男の不意をつき、相手のナイフを叩き落とし、そのまま取っ組み合いになった。 雅夫が強盗を、床に押し付けて取り押さえた瞬間だった。男は、隠し持っていたバタフライナイフを雅夫の腹部に突き刺した。雅夫はうめきながらも、男を取り押さえたままでいた。 コンビニ店員の通報で警察が到着し、男が現行犯逮捕されたときには、雅夫は顔色がなく、ぐったりしていた。 病院に運ばれる救急車のなかで、心肺機能が停止し、病院で救急治療に当ったときには、ほとんどだめだったらしい。 千恵は、交通事故で他界した父のことをだぶらせ、それ以上の存在になろうとしていた雅夫の不幸に言葉を失った。体のどこに、これほど水分があったのかと思うほど、涙は止まらなかった。 警察から雅夫の実家とは、連絡こそ取れたが、北海道の過疎地であったため、両親がすぐに駆けつけるわけにはいかなかったようだ。 しかたなく、アドレス帳の最初に書いてあった千恵のところに電話がきたのだった。 警察の取調べが終わったあと、警察の電話を使って、初めて雅夫の両親と話した。受話器の向こうから聞こえてきた声は、他人とは思えない親しみが伝わってきた。 雅夫が急死してから、一ヶ月ぐらい経ってからだろうか。雅夫の母親から一通の手紙が届いた。 生前、最後まで世話になった千恵への礼が、丁重な言葉で綴られてあった。手紙の追伸に は、雅夫からもらった櫛についての詫びとも願いともとれる一文が添えてあった。 「雅夫がお渡しした櫛の件ですが、やはり千恵さんに持っていていただきたいのです。雅夫は多分、新撰組だった先祖の生まれ変わりなのでしょう。お千代という娘は、この櫛を見てはいません。千恵さんの手元にあれば、千恵さんの目を通して、お千代も見られる気がしています。雅夫のことが、いつか思い出に変わったときに、櫛は処分してくださるようお願いいたします。押し付けになり、心苦しいのですが、私どもの心中をどうかお察しください」 この花だけは調べなくても知っている、と雅夫がいったヤマボウシ。櫛の端に小さく彫られていた花だったからだ。 梅雨に入る直前。毎年この季節になると、雅夫が来るはずもないのに、千恵は琥珀神社に来てしまう。そしてヤマボウシを見あげながら、櫛を握り締め、胸の奥でささやくのだ。 「わたしの手の温もりがわかるかな。百年もの思いと悲しみをありがとう。女ったらしの剣士さん」 返事を告げるように、ヤマボウシは匂い立つばかりだった。 〔了〕 <著者紹介> (東京都渋谷区/49歳/男性/コピーライター) |
<第1回応募作品> 『カタクリ』
2006 / 06 / 30 ( Fri ) 花びらは薄桃色。うつむいた可憐な姿は、内に秘めた情熱に自ら恥じらっている様だ、と幸子は思う。この花が好きだ。
「さっちゃんはどう?」 同僚のエミに話しかけられて、幸子は一心不乱に動かしていた筆先を止める。楽焼きをやり始めるといつも周りが見えなくなる程、集中してしまう。 「なあに」 「やあだ。さっきから盛り上っているのに」 「だからどっち? 今のところ森君が二票、田口君が一票よ」 そんなことだろうと思った。同期入社の話題といえば、男子社員のランキング、ケーキの美味しいお店と、至ってシンプルである。何が面白いんだろう、と内心幸子は眉をひそめている。もっと何かないのか、だから女子社員がバカにされるんだ。なんのために四大出ているんだろう。だいいち男なんて……。 「他に好きな子、いるんでしょう」 美咲の一言に、思わず筆を持ったままの手先に力が入る。 「まさか。タイプじゃないだけよ、二人とも。強いていえば、田口君かな」 「つまんなあい。同点かあ。あーあ」 エミが大げさに両手を放り投げる。恵子がまあまあ、と取りなして続ける。 「じゃあ、アラシでは誰が好き?」 アラシ、という言葉に一瞬身体が硬直する。たわいもない雑談をしているというのに。 アラシ、という言葉を口にする度に、充ち足りた想いに笑みがこぼれた頃があった。"アラシ" はイガラシという名字が長すぎるという理由で、小学生のサチコが彼につけたニックネームだった。 「今日からアラシね」 「アラシか。山アラシ?」 「バカ、違うよ。台風の時の嵐だよ」 「そうか。カッコイイなぁ、俺」 単純に喜ぶ彼に、サチコはちょっと後ろめたかった。名字を短くしただけなのに。 「アラシって何?」 「え、知らないの?ジャニーズのほら、新しいグループ」 なぜか三人は声をあげて笑う。そんなに大騒ぎすることか、とつい冷静になってしまう。自分だけ遠いところに居る気がする。もしかすると私の方がどうかしているのかもしれない、と幸子は思う。 「ねえ、焼き上りに一時間かかるんだって。お洒落な喫茶店があるから、そこで待っていない?」 エミが、店先に蔓で編んだ花器が飾ってある、和風の喫茶店をすすめる。自家製のチーズケーキが評判らしい。 「チーズケーキ?行く、行く」 全く、彼女たちはチーズケーキに目がない。昨日の帰りにも皆でルミネに食べに行ったばかりじゃないか。そういえば、彼と最後に食事したのもルミネだった……。 「私は…まだもう少し。描き終っていないから」 描きかけの皿を指して言う。ここ、深大寺に来るのは久しぶりだ。訪れる度に、楽焼きの看板に誘われて時間を費す。そして、いつも決まってこの花を描いてしまう。 「可愛い花。ねえ、上手だね。頑張って」 静かになった。三人の話し声が遠去かって、幸子はほっとする。これで皿のカタクリと向きあえる。この花だけは、いつまでも大切にしたいのだ。 「はい、これあげる」 「きれい!わぁ、どこにあったの?」 「家の下の林の中。いっぱい咲いてるんだよ」 初めて見る花だった。一目でその可憐な姿に魅入られてしまった。 アラシと二人で近くの図書館に立ち寄る。植物図鑑をめくると、春の野草の一番最初のページにその花はあった。色鮮やかなカラー写真で、雑木林の斜面を小さなピンク色の花が埋めつくしていた。「昔は根からカタクリ粉を採取したが、今では貴重なこの植物を保存するため…」解説を読んで思わず声をひそめた。 「アラシ。これ、珍しい花だよ。採っちゃいけないんじゃない?」 アラシは見る見る、ほっぺたをふくらませる。四年生にもなって、これが結構可愛い。「お前が喜ぶと思ったのにさ。俺ん家の続きの林にあるんだぜ。庭だよ、庭」 アラシの家は、ここ深大寺にある。高速道路のすぐ近くだが、静かで小高い丘の上だった。家の裏手の北側斜面は雑木林になっていて、麓には湧き水が流れる清々しい場所があった。夏を待ちかねて、サチコとアラシは小川で裸足になって遊んだものである。 「ねえ、見に行きたい」 泣いた鳥が笑ったかのように、アラシは一瞬で満面の笑顔になる。 「OK。じゃあ、明日一緒に帰ろう」 次の日は雨だった。幼い二人が交わした約束は、とうとう守られなかった。 雨の音に頭をもたげる。いつの間にか弱い雨が楽焼き屋の店先をぬらしている。外のベンチには赤い布がかけられていて、凛然と立ち尽している傘が静けさを守っているかのようだ。風情があるなあ、と幸子は見慣れた風景に、改めて心魅かれる。 大学生の頃は、そば家めぐりをした。深大寺は都内でも屈指のそばの名所でもある。サチコは、竹林の中でそばを食せる店が好きだったが、アラシは毎回違う店で食べたがった。一応地元なので詳しいらしく、ここの店が一番古いんだよとか、ここのばあちゃんは毎朝早起きして、10食だけ作るんだよとか、解説してくれる。自分を喜ばせるために一生懸命になっている彼が好きだった。 どうしてだろう。私も深大寺に住むはずだった。樹々が雨の音を吸い込み、ゆるやかな気持ちにしてくれるこの地に。 「着物、着てこいよ。親に紹介するからさ」 大学生の彼のまっすぐな物言いに、サチコはたじろいだ。 「すごいよ、きれいだよ。一番いいよ、それが。……大事にしたいんだよ俺、お前のこと」 嬉しかった。成人式の和装で彼に会えて良かったと、心から思う。 成人式の式典の後、二人は調布で待ちあわせをして、最高の一枚を撮りに新宿の写真館へ向かった。撮影も終わり、行きつけのルミネでいつものチーズケーキを口にし、やっとひと心地ついたところに、アラシの告白である。背中がまたしても緊張してしまう。 「紹介って、まだ早いんじゃない…」 自分の気持ちを落ちつけるために言いはじめただけだったかもしれない。 「母にも、まだ早いっていつも言われるし…」 嬉しい、と口にするのをためらっている間に、開いた口から別の言葉が出た。その場でわかっていたが、素直になれなかった。 彼の渾身の力をふり絞った告白はふみにじられた。失望と怒りで彼の表情は変わる。 「お前のかあさん、俺のこと気に入らないんだよ。K大生は世間知らずだって」 「ごめんなさい…」 「あやまるのか!なんでお前があやまるんだ。お前のかあさんに言われたんだぞ、俺は」 初めて目のあたりにする、彼のプライドの高さに私は言葉を失った。アラシ、そんな恐ることないじゃない。私、なんて言ったらいいかわからないよ。こんなに嬉しいのに、こんなに悲しい。私が悪いんだから、かあさんにあたらないで、お願い。 「ごめんなさい」 何か別の言葉を探すべきだった。けれどのど元までこみ上げる涙で、声にならなかった。 あの成人式の日を境に、彼からの連絡が途絶えた。もう深大寺を訪れることもないだろうと思っていた。 「カタクリですね」 いきなり声をかけられて我にかえった。そう、よく知っているわね、とゆっくり頭を上げた目の前に懐しい顔があった。 「焼き上るまで一時間かかりますよ。本物を見に行きましょう」 返事をする間もなく、腕をつかまれる。そう、この指、長くていい匂いがする。 雨の中、引張られるように、しかし寄りかかりながら進む。あの、雑木林だった。 「脱サラして、店やっているんだ。もう世間知らずじゃないよ、俺」 そんな風にずっと心にとどめていたなんて。 「ちょうど四月でラッキーだったよ。やっと約束が果たせる」 彼は幼い約束を果たしてくれた。初めて目にする本物のカタクリは、雨のしずくをしっかりと花弁に受けとめ、静かに強い意思を持って貯んでいた。 「サチも約束守れよ、そろそろ」 「約束?」 「会いに来いよ、俺の親に。紹介するからさ」 「着物着て?」 「当然」 思わず笑ってしまう。優しい。こんな短い言葉のやり取りが湧き水のように身体にしみとおる。この人とまた、裸足になって小川にひたりたい。私はこの人と深大寺に住みたい。あの頃、口に出せなかった言葉をやっと今、口に出そうとしている。 「嬉しい」 互いの掌を感じながら、この可憐な花と二人は、楽焼きの待ち時間いっぱいを共に過ごす。もう雨は落ちてこない。 〔了〕 <著者紹介> (東京都府中市/45歳/女性/アルバイト) |






