<第2回応募作品>『笑顔の水神』著者:金子 奈築
2007 / 08 / 03 ( Fri ) 元三大師堂で護摩供養が始まった。
私は般若心経を空で言えるようになっていた。二年前は神や仏を信じるような性格じゃなかったのにと、内心、おかしく思う。 あの時、彼は確かに私の目の前にいた。もしかすると、いやきっと、縁結びの神である深沙大王様の化身だったのだろう。 炊かれた護摩木が、火花を散らしている。 二年前の六月― 私は短大生の親友の麻紀から、彼女のアルバイト先の居酒屋の合コンに誘われた。男性従業員が連れてきた友人の一人が彼だった。 大騒ぎをしているメンバーの輪に入らず、 そうかといって仲間に入れなくて困っているような雰囲気でもないような、静かな笑みを浮かべていた。 「彼は東大生なんだって」 こっそり囁いてきた麻紀に、ふうんと私は興味なさそうに返事をした。 「城山君、瑞穂が気に入ったって言ってるよ」 麻紀がとんでもないことを抜かす。 「ありがとう」 彼が私に笑顔を向けた。 すごくかっこいいという類の顔ではないけれど、所謂爽やかなタイプというやつだ。 「今の嘘。そうじゃないから」 私にはその時、つき合っていると言えるのかどうかわからないような存在の男性が三人いた。彼とは明らかに違う陽気な遊び人タイプだ。 でも、東大か……なかなか出会えるタイプじゃないし、つき合ってみてもいいかも。それにこういうチャンスは二度とないだろうし……。はっきりと否定したにも関わらず、いろいろな考えが頭をよぎった。 「僕じゃ駄目なのかな?」 彼は先ほどと同じ笑顔だった。 楽しそうにはしゃぐ仲間を見ている時と、私に「ありがとう」と言った時と、まるで笑顔のお面をかぶっているかのような、寸分も違わぬ笑みだった。 これは油断ならないと思った。気持ちの変化が顔に出ないよう、作り笑いをしているのだ。しかも完璧に。心の中では相手をせせら笑っているに違いない。しかもエリートだし……。 「その笑顔よ」 思わず口をついて出ていた。 さすがに彼の顔から笑顔が消えた。 「嘘っぽいもの。さっきからコピーしたみたいにおんなじ顔して。なんか企んでいるんじゃないの?東大だし。頭良いみたいだし。ルックスだって悪くないじゃん。本当はそうやって、人のこと、ばかにしてるんでしょ?」 仲間が騒ぐのをやめてこちらを見ている。 「そんなことないよ」 彼はうつむき加減にまた微笑んだ。 「君の方が、僕よりずっと魅力的だよ」 「嘘」 「嘘じゃないよ」 私はテーブルを叩いた。 「じゃあ、今週の土曜日会って」 仲間がおおーっと冷やかしの声を上げた。 「いいよ。どこにする?」 彼の冷静で柔らかい口調に、段々腹が立ってきた。 「わざわざ出て行くの面倒だから、うちの近所の深大寺に二時」 気を落ち着けようと、私はタバコに火をつけた。 「わかったよ」 彼が携帯をポケットから出した。 「連絡先なんか教えるわけないじゃん」 タバコを挟んでいる私の指が震えていた。 彼は何事もなかったかのような涼しい顔で、携帯をポケットに戻していた。 動揺を見せない彼が憎らしかった。 土曜日の深大寺は曇り空だった。 山門前の階段脇で彼が手を振っている。 「来ないから心配したよ。事故にでも遭ったんじゃないかって」 また私の嫌いなあの笑顔だ。 「わざと遅れてきたの」 待ち合わせの時間は一時間も過ぎていた。 「そう。じゃよかった」 また彼が笑顔を向けてきた。 「ねえ、ちょっと。わざと遅れてきたって言ったじゃん。人の話、ちゃんと聞いてる?」 「聞こえてもいないのに、いい加減に返事なんかしないさ」 彼がまた笑った。 絶対に今日はその笑顔の化けの皮を剥がしてやる。私はそう思っていた。 土曜日ということもあって、座れそうなベンチを探したが、見当たらなかった。十五時を回っていたので、甘味処もほぼ満席状態だった。 「歩く」 彼は「歩く?」と尋ねたようだが、同時に私と全く同じ言葉を発していた。 彼より先に、本堂への階段を上り始めた。 「足、痛くない?」 振り向くと、まぶしそうな表情をしている彼と目が合う。 私はヒールの高いミュールを履き、彼とは不釣合いなくらい派手な格好をしていた。ミニスカートにキャミソールの私を、すれ違う男性達がじろじろと見ていた。 そうか。やっぱり。好青年ぶっていても、さすがに彼も男という性には勝てないよね。 あっさり勝負がついたような気がした。 「いいよ」 先に本堂の砂利道にたどり着いた私は斜めに彼を見上げた。 「いいよって、何?」 穏やかな口調で訊いてきた彼の手首を?んで、人気の少ない木陰の方へ歩いた。 「私を魅力的って言った意味わかった。素直にホテル行こうって言えばいいじゃん」 彼が私の手を振り払い、すごい力で私の腕を?んで引き寄せた。 「僕は女性を殴ったりもしないし、自分の主義に反することもしない」 強い眼差しだった。そして、この柔和なイメージの彼のどこからこんな力が出てくるんだろうと思うほどの力だった。 彼の目をしっかりと見ていた筈なのに、いつの間にか彼が見えなくなっていた。 茶屋通りのベンチに座ることができた私は過去のことを雪崩のように彼に話していた。 いじめで高校を中退したこと、自殺未遂をしたこと、援助交際をしていたこと、それらのせいで、家族に疎まれていること……。 彼は黙って聞いていた。そして最後にこう言った。 「そんな瑞穂ちゃんだから、僕の笑顔が偽物だって見抜けたんだね」 梅雨空の下で、彼だけが青空のように見えた。 「僕は素顔の自分と向き合うのが本当は怖いから」 何度聞いても、それ以上彼は自分のことを話さなかった。 私の派手な服装が心配で、彼は家まで送ると言って聞かず、タクシーを呼んだ。そのタクシーの中で、私は彼の連絡先を聞いたが、彼は私の連絡先を聞こうとしなかった。 「瑞穂ちゃんに任せるよ」 どきっとするほど優しい笑顔だった。 そして彼の最後の姿だった。 何度彼の携帯に連絡しても、全く返事が来ない。親友の麻紀は海外旅行へ行ってしまっていたので、消息を聞くこともできない。 私はイライラしていた。彼と会った後、つき合っていた男性達とは別れてしまっていた。洋服の趣味も変えた。 まさか、私を更生させようというただのおせっかいだったんじゃないかとも思った。もしそうだとしたら、なんて汚いやり方なんだろうと悔しかった。 深大寺の本堂に祀られている阿弥陀如来様に何度も謝りに行った。神聖な場所で彼を誘ったことに対する仏罰が下ったのだ。でも、彼への想いは純粋なんです……。と念じた時、自分でも驚くほどはっとした。恋をしている……それを認めた時、深大寺は縁結びの神で有名だということを思い出した。 真相を知ったのはそれから一ヶ月後のことだった。 私と会ったあの日、彼は自宅の最寄駅から 自宅までバイクで帰る途中に事故を起こしていたのだった。 飛び出してきた子供を避けようとして転倒し、反対車線のダンプに巻き込まれてしまったという。即死だった。 彼の父親は家出をしたまま行方不明だということ、母親は過労から脳梗塞で倒れて、病院で植物人間状態だということ、彼は学校へ通いながらアルバイトで生計を支えていたことなどを聞いた。 その時、あの笑顔の秘密がわかったのだった。逃げ出したくなるような現実を誰にも悟られないよう、隙間ない笑みで武装していたのだ。今までも、これからも、順風満帆で幸せ色の人生であるかのように。 この弱い私のように、不機嫌で意地悪で、すねている自己中心的な人間だったら、もっと長生きできたんじゃないかとも思う反面、彼とはもう、この世では二度と会えないけど、彼にふさわしい素敵な女性に、人間に、なっていけるような生き方に変えていこうと誓った。 幸せな恋にも、そして未来にも、縁がないと思っていた私と、どんなに辛くても、悲しくても、幸せになろうという、ひたむきで純粋な、前向きな気持ちとを、彼が強い縁で結んでくれたから。 目の前でパチッパチッと飛び散る護摩木の火の粉が、彼の清らかな魂の笑顔に見えた。 (了) ----------------------------------------------------------------- <著者紹介> 金子 奈築(調布市/36歳/女性) |
<第2回応募作品>『夏の森』著者:有森 玲
2007 / 07 / 27 ( Fri ) 「ワンちゃんもご一緒できますよ」
コーギー犬を連れている僕たちを見て、蕎麦屋の女性店員が声をかけて来た。神代植物公園脇の蕎麦屋には、外にも席が設けられていて犬を連れていても、ここでなら蕎麦にありつけそうだ。 「ここで、食べていきましょうよ」 サキが言って、僕たちは店員に案内されるままに席に着き、サキは愛犬シンシアを机の脚に括り付けた。シンシアはお座りの格好をして上目遣いに僕たちを見た。 周囲には樹木が覆い茂り、東京の真夏の昼下がりであっても、どこか山奥の深い森の中にいるかのような居心地だった。僕は長く東京にいる間に、森がもっている薄っすらとした猥雑な匂いを忘れかけていた。ずいぶんと懐かしいような感じがした。 品書きをちらりと見て、「天ざる にする」と僕は言ったが、サキはとろろ蕎麦とおろし蕎麦とを迷った挙句、結局「おろし」にすると言った。先ほどの店員に注文を告げると、ひとつ隣の空席を挟んで座っていた年老いた夫婦と思しき男女二人が、僕たちの隣の空席までやってきた。男性は地味なチェックのシャツを着ていたが、女性はピンクのTシャツに白いパンツで、いかにも快活そうだった。二人はもう蕎麦を食べ終え、森の中でくつろいでいたようだ。 「可愛いワンちゃんですね。お名前は?」ご主人が言った。 「シンシアです」 「あら、難しいお名前ね」今度はご夫人が言って、シンシアの頭をなでた。ご主人は大きなレンズのついたカメラを肩から下げていた。それをシンシアのほうに向けて、舌を軽く鳴らすと、シンシアはご主人のほうを向いた。シャッターが連続して切られた。 今撮ったばかりのシンシアの写真をデジタルの画面で見せてくれたが、シンシアが、舌を少し出して正面を向いた様子がきれいに撮れていた。 「すごくかわいく撮れてる。おじさんはまるで魔法使いのようですね。なかなか正面を向かせて写真、撮れませんよ」サキが言った。 「二人とも犬が大好きでね、よくこうやって撮らせてもらっているんですよ」 そう言うと、ご主人はバッグから写真ホルダーを取り出して、「ほら、これ」と僕たちに差し出した。サキが机の上で開けてみると、ダルメシアンやレトリバー、シェトランド・シープ・ドッグがボールを追いかけたり、お座りしている写真が収められていた。 「犬は飼われていないんですか?」僕が訊ねた。 「二年ほど前に死んでしまってね。今から飼っても、私たちのほうが先に死んでしまうだろうからね」ご主人がそう言うと、ご夫人 も相槌を打つように頷いた。 僕はなんだか悪いことを言ってしまったような気がした。 先ほどの店員が注文したものを運んでくると、二人は僕たちに礼を言って、勘定を済ませ植物公園に向かって歩いていった。 サキは三ヶ月ほど前に離婚をしていた。結婚生活は三年続かなかったようだ。離婚に至るまで、別居生活を続けていたわけではなく、 離婚届を出すと同時に元の旦那が家を出た。サキはシンシアと3LDKのマンションを引き取った。まだマンションのローンも途方もなく残っているだろうし、そのあたりについてどう折り合いをつけているのか、僕はまったく知らない。離婚の原因についても、元の旦那が悪いのか、サキが悪いのか、それとも互いに悪いのか、そもそも誰も悪くないのか僕には見当もつかない。サキは元旦那のことを悪くも言わなければ、自分がどうだとかも一切口にしなかった。 僕は大学を出てからは、一度だけサキと二人きりで会ったことがあった。サキが結婚する前のことだ。二人でわりと有名なある劇団の演劇を観に行ったのだが、サキは僕とは違う誰かと行く予定だったみたいで、その誰かに急用ができたため、その代わりに僕が行ったのだ。その誰かというのは元旦那だったのかもしれないし、ただの女友達だったのかもしれない。その時にそんなことはサキに訊かなかった。 僕たちは演劇を観た後で、軽く食事をしてバーに入った。そのときに就職したばかりの会社のことを互いに話し合ったことは憶えているのだが、どの店に入って、何を頼んだのかまでは憶えていない。どうせ僕はいつものようにビールを飲んでいたのだと思う。 「小宮君、芝居とか好きでしょ。だから、誘ったの」 別れ際にサキはそう言った。僕はとりわけ演劇とか好きなわけでもなく、年に一回観に行くくらいだった。 「また、なにかあったら誘うね」サキが言った。サキと出かけるのは悪くはなかったし、僕も「こちらもね」と言った。 そう言ったきり僕たちが二人で会ったのは、六年ぶりだった。その間にサキは結婚して、犬を飼って、離婚をした。僕は結婚も離婚もしていなかったが、新卒で就職した会社を辞めて、別の会社で働いていた。サキはまだ会社を辞めずに続けていた。 僕たちは蕎麦を食べ終えると、深大寺の方へ降りていった。僕がシンシアのリードを持った。深大寺でお参りを済ませ、僕たちは野川に出て、左岸を上流に向かって歩き始め、野川公園を目指した。 川原には草が茂り、アスファルトと違ってシンシアも歩きやすそうだった。野川にはカルガモの親子が浮かんでいたり、武蔵野の佇まいが残っていて、僕は飽きることがなかった。 旦那が出て行った後、サキは一人でシンシアの面倒を見なくてはならなかった。シンシアも旦那が出て行くときに本棚や机が運び出され、ぽつりと空間ができると、それに敏感に反応したようで、しばらく下痢が続いたり、散歩に出てもすぐに帰りたがったらしい。犬は人間よりも神経質で、環境の変化には過敏のようだ。旦那と暮らしていたころは、朝夕の散歩もサキが行ったり、旦那が行ったりと交替でこなすこともできたが、今はサキが一人でこなしている。仕事を持ちながら一人で朝夕の散歩を欠かしてはならないというのは骨の折れることだろうと容易に想像がつく。ペットを育てるための休暇制度なんてあと何百年経ってもできそうにないし、犬を飼うにも綿密な人生設計がいるものだ。 三日前にサキから突然の電話があった。サキが離婚したと僕は知っていたが、「いろいろ大変だったみたいだね」としか言えなかった。 「あまり遊んでやってないせいで、シンシアもストレスが溜まっているみたい。休みの日以外はずっと一人ぼっちにさせているし」その電話でサキが言った。そうして夏でも犬を歩かせやすいだろうということで、僕たちはこうして深大寺の森にやって来たのだ。 野川公園では、まっすぐ立った何本もの木々が芝生にくっきりと濃い影を落としていた。 「シート持ってきたから、ここに座りましょ」サキはトートバッグからレジャーシートを取り出し、二人で広げて腰を下ろした。売店で缶ビールを二本買って来た。サキと軽く缶をあわせて乾杯をした。木陰で飲むビールはなんとも旨いものだと思った。 「小宮君、犬好きでしょ」 サキが言った。僕は自分が世間の平均から見てどの程度の犬好きなのか、考えたこともなかった。カメラマン氏やそのご夫人ほどではないにせよ、少なくとも嫌いではないと思った。 「たぶんね」僕は言った。 四時を回ると、僕は車をとって来ると言って、タクシーを拾い、車を止めた場所に戻った。再び野川公園に戻ると、サキとシンシアを積み込み、サキの家まで送っていった。 翌月曜日、僕はいつもの平日と同じ時刻の七時五発の中央線に乗った。新宿駅で降りて、通勤前に必ずコーヒー・ショップに寄って、新聞と文庫本を読むのが日課になっている。 窓越しには同じ方向に向かって舗道を歩く人の流れがあった。その流れの中に確かに昨日のカメラマン氏の姿があった。ノーネクタイで、ジャケットを羽織っていた。追いかけようかと思ってふと立ち上がったが、目の前のアイスコーヒーの入ったグラスを見て、思いとどまった。カメラマン氏はそのまま流れに消えていった。朝から幻でも見たかのような不思議な気分に包まれて、僕はその日ずっと昨日のことを思い出していた。 そして、その日の夜に僕はサキに電話をして、朝、新宿でカメラマン氏を見かけたことを話した。 「小宮君、明日も張り込んでみてね」サキにそう言われて次の日も同じ時刻にコーヒー・ショップに入り、窓側の席で、外をずっと眺めてみたが、カメラマン氏は現れなかった。そうしてその日のうちに電話でサキに報告をした。次の日もカメラマン氏は現れなかった。 そうして同じように電話で報告をすると、「ねえ、また土曜か、日曜日に深大寺にまた行ってみようよ」サキが言った。 僕は木陰で飲んだビールが忘れられず、 気の利いた食べ物でもあれば最高だと思った。 「じゃあ、ローストビーフかなにかでサンドウィッチでも作ってきてよ」 「うん、わかった」サキは軽快に言った。 「ねぇ、小宮君。私のこと好きでしょ」 小首を傾げて舌を出しているシンシアの姿が頭に浮かんだ。 (了) ----------------------------------------------------------------- <著者紹介> 有森 玲(東京都葛飾区/39歳/男性/会社員) |
<第2回応募作品>『なんじゃもんじゃの光』著者:坂井 むさし
2007 / 07 / 20 ( Fri ) 梅雨の合間の曇りの日、俊介と繭は調布駅前のファミリーレストランで向き合いながら座っていた。繭は半分まで飲んだアイスティーに浮かぶ氷を、ストローで何回も転がしながら会話を続けた。
「俊介、ごめんね。バイトとか忙しかったんじゃない?」 「全然。ちょうど、家庭教師先の生徒の具合が悪くて、バイトが休みだったんだ」 「そう、それなら良かった。俊介、いつもサークルが終わるとバイトに忙しそうだったから…みんなとお茶したり、ご飯食べたりしないでしょ。俊介とちゃんと話をしたいと思ったから…」 繭は動かすストローの手を止めて、俊介を見つめ微笑んだ。 俊介は今春、山梨県の自然豊かな山間の町から都内の私立大学に進学し、一人暮らしをしている。大学の学費やら、アパート代やら、親の仕送りだけでは厳しいので、アルバイトをしながら生活費を補っている。 繭も今春から大学生となり、調布にある自宅から俊介と同じ大学に通っていた。 2人が出会ったきっかけは、大学のテニスサークルだった。繭は長身で美しい黒髪の女性であった。凛とした雰囲気と、時折垣間見せる10代女性のあどけなさが入り交じる魅力的な女性だった。 俊介はサークルに入った当時から、繭の存在が気になっていた。魅力的な女性だけに、周囲の先輩や同級の男子学生が注目していることも知っていた。大学の講義が終わった後、キャンパスで繭から声をかけられた時は、正直、喜びよりも驚きの方が大きかった。 「仮病、使っちゃった」 「え!?仮病って…何?」 「今夜ね、サークルの男子の先輩達と1年生の女の子達で誕生会をやることになっているの。新宿のパークハイアットのスィートで」 サークルには資産家の息子が何人かいて、彼らがグループで高級ホテルやレストランを借りてパーティーをやっていることは、俊介も知っていた。誘われた女の子達が非日常のお洒落な時間が過ごせると、意気揚々としているのを傍目で見ながら、自分とは関わりの無い世界だと感じていた。 繭ほどの女性であれば、彼らから声をかけられてもおかしくはないと思った。ただ、毎日、毎日、バイトに明け暮れている自分と、親の金で自由気ままに遊んでいる彼らとの立場を比べて、俊介は少し嫉妬した。嫉妬を悟られぬよう、平静を装いながら俊介は尋ねた。 「で、誰の誕生会?」 「私の。今日が19歳の誕生日なの」 「えっ!繭の誕生日だったの!」 あまりにもあっさりと繭が答えるので、俊介は戸惑った。高級ホテルのスィートで開かれる誕生会。俊介だって山梨の田舎から上京して、流行のドラマに出てきそうなホテル、新宿の夜景、美味しい料理、そんなシチュエーションに憧れを持っている。それを事もなげに断るなんて。 「私ね、誕生会の誘いがあった時に、断るつもりだったの。だって、学生の身分でパークハイアットのスィートっておかしくない?自分できちんと稼いでいる人が誘ってくれるならまだしも、親のすねでしょ。そういうの、すごいイヤ。でもね、一緒に1年の女の子達も誘われて、その子達が乗り気になっちゃって…私が断ると、誕生会自体がなくなっちゃうでしょ。女の子達の無言のプレッシャーに負けてね、断れなかった。でも、当日、病気ってことにしておけば、誕生会も私抜きでやるだろうって、思って」 「ホテルのスィート蹴って、俺とファミレスだぜ。本当に良かったのか?」 「言ったでしょ。親のすねかじりは嫌いだって。それよりも、頑張ってバイトしている俊介の話が聞きたいし…」 俊介の心臓が少しキュッとした。男子学生の注目を一身に浴びている繭が高級ホテルを捨てて、自分の前に対峙している。 俊介は覚悟を決め、立ち上がり、会計の準備を進めた。事態が読めずにいる繭に対して、右手を差し出した。 「なんじゃもんじゃの光を観に行かないか」 2人は調布駅から深大寺へ向かうバスに乗った。バスの最後尾の席に2人は並んで座る。バスはゆっくりと駅前のロータリーを出発する。 繭が怪訝そうに俊介に尋ねた。 「なんじゃもんじゃの光って、何?何をしに行くの?」 「あとでのお楽しみさ。誕生日の想い出になるよう、ささやかなプレゼント」 「へぇ〜、じゃ、楽しみにしているね」 俊介はバスに揺られながら、饒舌なくらい自分のことを話した。バイトで家庭教師をやったり、そば屋で働いたりしていること。実家の両親が教師をしていること。すごい田舎で電車が一時間に1、2本しか走っていないこと。小さい頃は、近くの沢で沢蟹を捕って遊んだこと。 繭は俊介が話す言葉に耳を傾け、にこやかに頷いていた。 深大寺入口のバス停で2人は降りた。木々が生い茂り、枝の合間から薄墨色の雲が広がっていることを辛うじて覗き見ることができた。 「まだ、7時ごろだっていうのに、全然人がいないのね。ちょっと怖いな」 「大丈夫だよ。ここは俺のテリトリーだから」 俊介は繭の右手を握り、深大寺の参道に向かった。 参道に辿り着くと視界が広がった。鬱蒼とした木々が開け、参道の両側にはそば屋や茶屋が軒を連ねていた。とっくに店じまいをしたそば屋、茶屋を通り過ぎると、茅葺屋根の山門が目に入る。山門の前には水路があり、静寂の夜に清水が流れる音が心地よかった。 「私、深大寺って、大学に行く時にいつも通っているけど、中に入るのは初めて。こんな、静かで綺麗な場所だったなんて知らなかった。昼間に来たら、もっと風情が楽しめたでしょうね」 「夜は夜で、趣があるよ。なんじゃもんじゃの光はこれからさ」 山門をくぐりぬけ境内に足を踏み入れると、敷き詰められた砂利の音が響いた。本堂を正面にして左手に進み、1本の樹木の前に辿り着く。 「これがなんじゃもんじゃの木。ヒトツバタゴっていう木なんだよ。別名、雪の花とも言われる。まだ、少し花が咲いているかもしれないな」 「雪の花…綺麗な名前ね。光っていうことは、この花が光るの?」 「ちょっと違うな。少し待っていてごらん」 無言のまま、境内にそびえるなんじゃもんじゃの木を見つめていると、右手から幾本かの黄色い光の筋がすうっと流れてきた。光の筋は2人の目の前で緩やかに舞い、なんじゃもんじゃの木に停まる。 「何!?この光!なんじゃもんじゃの光って…」 「蛍だよ」 「東京で蛍!嘘でしょ!すごい!」 繭は興奮し、声が大きくなりかけたが、静寂な境内にふさわしくないと咄嗟に悟ったのか、小声で俊介にささやいた。 「私、蛍を生で観るの初めて!嬉しい!」 「誕生日プレゼント、喜んでくれたかな?」 「もちろん!!」 繭は俊介の肩にもたれながら、幾本かの光の筋を見つめていた。俊介は、繭の体温と黒髪の匂いを感じながら話し出した。 「俺、東京に憧れて、大学に進学して一人暮らしを始めた。でも、どこかで田舎の風景を探していたのかもな。何気なく訪れた深大寺だったけど、山梨の実家に似てる雰囲気があってね、一発で気に入っちゃった。そば屋でバイトしているって言ったろ。実は、参道にあったそば屋でバイトしているんだ。」 「本当!?てっきり、駅前のそば屋かと思ってた。随分、本格的なお店でバイトしていたのね」 「バイト帰りに境内をお参りしていたら、さっきの蛍を発見したわけ。すごい感動したよ。だって俺の実家でも、今頃の季節になると、田んぼの脇の川にたくさんの蛍が舞うからね。深大寺が心の故郷に思えた。きっと、願い事が叶うだろうと思って、一生懸命お参りしちゃったよ」 「願い事って、何…?」 「繭、深大寺のご利益って何か知ってる?」 「知らない。学業の神様とか?」 「違うよ。縁結びの神様。繭と付き合えますようにって、ずっと祈ってた。俺、前から繭のことが好きだった」 一瞬、沈黙が流れた。肩にかかる繭の重みに、俊介は自然と鼓動が高鳴るのを感じた。 「ありがとう」 繭は俊介の左腕をぎゅっと抱きしめた。俊介は照れ隠しに、声を張り上げ気味に言った。 「誕生日プレゼントの後は、誕生日会だ!バイト先で貰ったそばがあるんだけど、俺の部屋で食べない?」 「そばでお祝い?しっぶーい!俊介、本当に十代なの?私、そば好きだからいいけど、普通のギャルだったらひいちゃうよー。それと、そばを食べるだけだからね。変なことは駄目!」 「大丈夫だよ。俺を信じろよ」 2人は手をつないだまま山門を下り、足取り軽く参道の石畳を進む。なんじゃもんじゃの光を背にして。 (了) ----------------------------------------------------------------- <著者紹介> 坂井 むさし(東京都西東京市/33歳/男性/会社員) |
<第2回応募作品>『緑の風』著者:大越 康弘
2007 / 07 / 13 ( Fri ) 苔むした水車が窓越しに濡れ輝く。深大寺のあたりにはいくつもあるなかでは、やっぱりここが一番。慎ましやかな佇まいの店でいつもの蕎麦を待つ週末の昼下がり。春香にとってはこのうえもないひとときである。
蕎麦湯が出るころには、客は春香と老夫婦だけとなった。彼らが勘定を済ませて立ち去ると、若主人の仁一がテーブルの前に歩み寄ってきた。 「いつもありがとうございます」 「週末は皆勤賞ね」 「毎週、春香さんの姿を楽しみに待っているんですよ」 「ホメ殺しは勘弁。でも私、ここに来ると癒されるっていうのかな。仕事のこととか忘れられるの」 「お仕事は何でしたっけ?」 「会計屋さん、ってところ」 「すごいな。僕、数字がいちばん苦手なんです。春香さんみたいな人に、週末だけでも帳簿をお願いできたらなあ」 「そんなの朝飯前。それより私、こういうところで働いてみたい」 「え?」 「叔母が小料理屋をやっててね、割烹着で立ち働く姿に、憧れてた」 「だったら来週、やってみませんか?バイトが休みをとるんですよ」 「うん、決まり!」 次の土曜日、いつになく早く目が覚めた。こんなに浮き浮きするのは何年ぶりだろう。またも笑みがこぼれた。一時間も前に着いてしまうと、「臨時休業」の貼り紙に出迎えられた。勝手口に回りチャイムを鳴らす。ちょっと間を置いて顔を出した仁一の目尻に疲れが滲み出ている。 「どうしたの?」 「困ったことになりました」 ―いつもの蕎麦粉の出荷が止められてしまった。あれでないとウチの味が出ない。このままでは店を続けられなくなる。代わりを見つけるにも半年や一年はかかる― 深沙大王堂までの道のりをゆったりと歩みながら、仁一はそう語った。蕎麦農家の名を聞いた春香は「力になれるかも」とつぶやき、山門の前を滔々と流れる水をしばらく見つめていた。 翌々日、東京からは三時間ほどの山の中。ジージジーという蝉の声が、さすがに深大寺よりもずっと濃い。 「片倉さん、おしさしぶりです」 「あなたは!」 「妙なご縁がありまして」 「もう十年、になりますか」 「お嬢さんはお元気ですか?あのときは中学生でしたね」 「今はそれだけが悩みで。つきあっている相手がいるようですが、態度がはっきりしない。まったく…。あ、失礼。それで?」 「頼みがあって来たの」 「そう言われると、断りにくいな」 「蕎麦粉を分けてほしいの」 「あなたが?」 「知り合いのお店」 「そうですか。たいがいは断るんですけど。まあ、あなたがわざわざ訪ねてきてまでおっしゃるなら」 「深大寺の…」 「あっ!あそこだけは駄目です」 まったく取り付く島がなかった。帰りのバス停までとぼとぼ歩いていると、後ろから激しいクラクションで追い立てられた。トラックが通り過ぎたあとには、鬼太郎茶屋の目玉餅が路面にべったりと貼り付いていた。渡しそびれた手土産の哀れな末路であった。 「…というわけ。大きな口叩いておいて、私も頼りないね」 「そんなことありません。春香さんにそこまでやっていただいて、感謝してます。それにしても、どうして…?」 最近、仁一の店は蕎麦の味が落ちたという評判が入っている。採算ぎりぎりの線まで品質への執着を徹底する片倉にとっては、断じて許せない。要するにそんな話だった。 「心当たり、ある?」 「最近、考え事が多くて」 「考え事?」 「将来のこととか…」 仁一の頬にわずかな赤味がさすと、春香のほうも首筋が熱くなった。五大尊池の水面をかすめながら、きらめく緑と青に彩られた蜻蛉が連れ舞っていた。 参道から一歩入った路地にひっそりと佇むレンガ造りの珈琲屋。店内の飴色と窓越しの緑が、目にも身体にもすうっとしみいる。ここでぼおっと過ごすのも、これまた春香にとってはお気に入りの週末だった。木と土の匂いが漂う空間で丁寧に淹れられたコーヒー。十年前の記憶が甦ってきた。 ある企業で経理の不祥事が発生。事件の悪役とされていたのが片倉だった。調査チームの一員であった春香が持ち前の性分で徹底的に洗いなおしたところ、小さな疑問が浮かんだ。調べを進めるにつれ矛盾はさらに膨れ上がり、最後には、片倉ははめられたとの確信に至った。無難にすませようとする上司を断固としてはねのけた春香に対する風当たりが強まると、彼女のほうから辞めたのであった。難を逃れた片倉も半年後に退社。好きであった蕎麦を自分でつくりたいと田舎にこもったのだった。 店を出てからも思いは巡った。駅まで小一時間、歩くことにした。いつだって自分は筋を通してきた。世の中に対して、片倉に対して。こんどもそうするしかないじゃないか。なによりも、仁一に対して頼りになるところを見せたい。彼のあの言葉。あれはもしや…?だったらなおさら。そうして…。 家に帰り着いてからも、コーヒーの仄かな甘味の余韻はいつまでも残っていた。 神代植物園のバラ園を囲むベンチのひとつでは、見ず知らず同士の若者と老婦人が親しげに話している。そうさせる雰囲気がこの界隈には漂っている。ここなら本音で話せそうな気がして、片倉を呼んだのだった。 ありったけの熱情で説得を試みる春香を、片倉は渋い顔で断り続けた。雷鳴が近づいてきた。 「悩んでいたんです、彼は。ある女性と、将来をどうしようかと」 「蕎麦とは関係ないでしょう。失礼」 「蕎麦とは関係がなくっても、私に関係あるんです」 「は?」 大粒の雨が降り始めた。 「だから、その女性って、あのぉ、」 ひときわ大きな雷鳴が轟いた。続いた閃光が、走り去る片倉の背中を照らした。 雨に打たれるままに立ち尽くし、春香の心は叫んでいた。もういい。自分が全国をまわって、あれ以上の蕎麦を仁一に見つけてあげる。大丈夫、見つけてみせる。 タクシーの窓からは、さすがに涼しさを帯びた風が忍び込んでくる。時差ぼけを覚ますにはちょうどよい。 あの雷雨の日の翌週に抜き差しならない海外出張に巻き込まれ、気がついたら三週間。やっと帰国がかない、荷物を放り投げて駆けつけたのだった。 汗を浮かべながらそばを打つ仁一の姿を認めて、春香はほっとした。客席も上々の入り。店を出る間際になって、ようやく仁一が出てきた。 「片倉さんが送ってくれたんです」 割烹着姿の若い女性が、後ろからぺこりと頭を下げた。 「妻です」 意志の強そうな目もと、口もと。どこか見覚えがある。 「片倉の娘でございます。以前は父が大変お世話になりました」 仁一が、ひときわ太い声で続ける。 「おかげさまで、二人でやっていく覚悟ができました。いろいろありがとうございました」 春香は、とびっきりの笑みを返した。いや、返そうとした。 「よかった。じゃ、また」 きりっと後ろを向くと、振り返りもせず立ち去った。ほんとうは走り出したかった。どこまでも走っていきたかった。青ざめた顔を、震える足を、見られたくなかった。 よりによって、片倉の娘と仁一とが…。出荷を止めたのも、仁一の曖昧な態度に業を煮やしてのこと。入籍を知り片倉も安堵というわけ、か。 どこをどう回ったのだろう。ようやく落ち着きが戻ってきた。目の前では、弁財天池の亀が悠々と手足を伸ばして日向ぼっこに興じている。 「なんてこった」 まるで道化役じゃないか。そう思うと、たまらなく可笑しくなってきた。笑いが止まらなかった。やがて、亀の姿がぼやけてきた。 夕の梵鐘が聞こえてきた。ふっと釈迦堂を見返ると、白鳳仏が微笑んだ気がした。緑を揺らして、風が駆け抜けた。 (了) ----------------------------------------------------------------- <著者紹介> 大越 康弘(東京都港区/39歳/男性/会社員) |
<第2回応募作品>『小さな幸せを揺らして』著者:鈴木 みつる
2007 / 07 / 06 ( Fri ) 大通りに出ると、せわしなく車が行き来する音が聞こえてきた。顔に当たる陽射しの強さから、今日が雲ひとつない晴天だと分かる。
気持ちの良い日だった。僕は額に汗を浮かべながら歩道橋を上り始めた。今日も逢えるかな、そんな淡い期待を胸に抱きながら僕は一歩一歩踏みしめる。右手に持つ杖の握り部分で揺れる小さな御守りが、僕の歩くリズムを作っていた。 「深大寺歩道橋っていうのよ」 幼い頃、手を引いて散歩に連れて行ってくれた母親の言葉は今でも鮮明に残っている。あの時初めて、歩道橋に名前があると僕は知った。上り三十六段、下り三十一段。最初の頃は確かめるように頭の中に数字を並べなければ怖くて歩けなかったが、今では無意識に足が進むべき方向を定めてくれる。 深大寺小学校を右手に、その角を曲がると長い下り坂が待っている。そこから高い石垣に沿って歩き元三大師堂を目指すのが、僕のお気に入りの散歩コースだ。小学校低学年の頃からだから、もう十年は歩き続けていることになる。 頭の上からセミたちの声が響いてくる。天に顔を向けると、その振動が顔にじりじりと伝わってくる。しばらくそうして歩いていると、陽射しが途切れた。心地よい水音の響きは下り坂の終点、大樹の下までやって来たことを知らせてくれる。「不動の瀧よ」と、これもまた母が教えてくれた。この世のものには何でも名前があるんだと知ってからは、母親に質問ばかりしていた。交差点や道にだって、僕の瀬田永路っていう名前と同じように名前があったのだ。 不動の瀧からしばらく歩くと、左手に店が並び建つ。「いらっしゃいませ〜」という声に、「瀬田くん今日も帰りに寄ってってね、麦茶入れとくから」という僕に向けられた言葉が聞こえてきた。岩井さんだ。毎日、そうやって声を掛けてくれるとても親切な人で、僕はいつものように「後で寄ってきまーす」と声の主の方に向かって叫び通り過ぎる。 山門の階段はとても急だけど、両隅には竹の手すりがあり、僕は毎日その感触を楽しみながら一歩一歩踏みしめる。最初の頃はザラザラしている竹肌。しばらくすると表面がツルツルしてくる。多くの人がこの手すりを使用しているからだ。ずっとそんなことに神経を向けていたからか、最近は竹の変え時が分かるようになってきた。そろそろだなと思っていると、ある日の朝からまた新しいザラザラした竹になっているのだ。今日の感じからだと、来週か再来週には新しくなるだろう――散歩コースの楽しみは、年月を重ねるたびに増えていく。 そして、一昨日の大雨の日からまたひとつ新鮮な気持ちを抱きながら、僕は散歩するようになっていた。 その日は朝から激しい雨が降っていた。危ないので傘はささず、フード付きの雨合羽を羽織って僕は家を出た。 雨の日は雨音で周囲の音が聞き取りづらく、特に注意が必要だ。人の気配はもちろん、自転車の気配も見逃しがちになる。それに足元が滑りやすくなる。僕はいつもよりアンテナを敏感にさせて参道を歩いた。 山門から先は、歩数を頼りに僕は方向を定めている。正面から線香の匂いを頼りに四十二歩進むと、香炉の前にやって来る。そこから左に進路を変えて二十五歩で井戸の前。さらに斜め左方向に石床を十二歩ほど歩くと、元三大師堂の敷地へと続く階段がある。ここは十四段と短い。山門と同じく左右に設けられている竹の手すりの感触を確かめ、僕は一歩一歩と踏みしめる。 階段を上りきって十七歩で、ようやく元三大師堂の真正面。石段を三段、木階段を五段上がると賽銭場所に到着する。 いつものように小銭を投げ入れ手を合わせ終え、ゆっくりと階段を下り引き返し始めた時だった。濡れていた木段の角を踏み外した僕は、足を取られて二、三段ほど転げ落ちてしまった。痛みはなかったが、油断していたこともありしばらく動けなかった。 まずは両手で周囲を探り、立ち上がろうと力を込めた瞬間、その声が頭上から聞こえてきた。 「大丈夫ですか?」 すっと手が伸びてきた。とても細い指だった。僕の左手首をしっかりとつかみ、「立てますか?」と声を掛けてきた。 「だ、大丈夫です」僕は慌てて言うと、彼女に力を借り立ち上がった。 「雨の日は滑りやすくなるんですよ。気をつけてくださいね」 「つい油断してしまって……。もう大丈夫です」僕はそういうと、杖を握っていないことに気づいた。転んだ瞬間に手放してしまったのだ。 「毎日、ここに来られてますよね? あっ私、ここで巫女をやっている山口由美です。何か困ったことがあったら何でも言ってくださいね。だいたい毎日、ここにいますから」言い終えると、彼女は僕の右手に杖を優しく握らせてくれた。 「本当にありがとうございます」 高まる鼓動に負けないぐらいの早足で、僕は逃げるように境内を出た。それでも彼女の柔らかな手の感触と温もりは、僕の両手から消えることはなかった。 翌日は打って変わって良い天気だった。期待と不安を覚えながら、僕はいつものコースを寸分の狂いなく歩く。元三大師堂に続く階段を上ると、呼吸が早くなっている自分に気づいた。今日も由美さんは来ているのだろうか? ポケットから小銭を取り出し参拝。周囲に何人かの気配を感じる。たぶん老夫婦と親子がひと組だ。少しいつもより時間をかけて拝んでしまったと思い、僕はやって来た方向に向き直り、階段を慎重に下りる。今度はいつ逢えるんだろう、と思った瞬間だった。背中に声が掛かった。 「あの、ちょっといいですか?」 声の主はもちろん由美さんだった。振り向くと、すぐ近くに気配を感じた。 「ちょっと貸してください」 由美さんは僕の右手から杖を取った。何をするんだろうと思いながらしばらく待っていると、また由美さんが口を開いた。 「よし、これで大丈夫かなぁ。私からのプレゼントです」 返された杖の上端に何かが結び付けられていた。僕はそっと触ってみる。お守り? 「ここのお守り、本当によく効くんです。私も同じのをいつも身に付けてるんです」 「あ、ありがとうございます。あの……」 続く言葉は結局、出てこなかった。なぜそんなに親切にしてくれるんですか、とは言えずに僕は家路に就いた。 家の玄関で靴を脱いでいると、奥の台所から母親が近づいてきた。家の中にはカレーの匂いが充満していた。 「ずいぶん遅かったわね」 そう言ってから少し間を置いて、僕が靴箱に立てかけた杖に気づいたのか尋ねてきた。 「お守り買ってきたの?」 「ううん、もらった」 「誰に?」 「え?」僕は迷った。照れがあったので、その場は「ナイショ」と笑顔を作ってみせた。 「なにそれ」と母親も笑ったが、続けてこう言った。「大事にしなさいね。これ、交通安全のお守りなんだから」 「分かった」 生まれた時から視力を持っていなかった僕は、これまで周囲の人からたくさんの親切を受けてきた。ずっと、ずっと、支えられ助けられ、今ではひとりで生きていけないということを自覚しているほど、多くの人たちから。でも由美さんの親切は、これまでのものとはまったく違っていた。なんだろう……顔を見ていないはずなのに僕の心の中でイメージが膨らんでいったのだ。声の響きやそこにいるという気配。ふたりの距離には無数の空気の粒があるはずなのに、まるで触れ合っているかのような気分なのだ。 翌日から僕にとっての深大寺の散歩は、明らかに変わった。散歩でなくなった。だから額の汗を気にすることなく僕は今日も、横断歩道を越え、深大寺小学校をなぞるように参道へと入り――山門からの百十歩を寸分の狂いもなく爽快と歩く。杖の先端に付いた、小さな幸せを揺らしながら。 「こんにちは。今日も良い天気ですね」 元三大師堂の前までやって来ると、セミたちの鳴き声に負けないぐらい元気な由美さんの声が響く。 この夏、またひとつ散歩の楽しみが増えた。 (了) ----------------------------------------------------------------- <著者紹介> 鈴木 みつる(東京都大田区/29歳/男性/フリーライター) |









